ソウル・ミョンドンの朝、女子高の通学風景に出くわした。
寝ぼけ眼なのか、女子高生たちの目は線を一本描いたように細くでどこまでも平面的な顔立ちをしている。
ソウルの街中を歩く立体感ある目鼻立ち美人の原形は見出せない。
あまりに不連続であり、韓国美人女性がこの集団から輩出されるとはとても思えない。
男子に兵役が課されるように、噂通り、この国では女子にとって美容整形が必修科目なのだろうか。
ミョンドンのマッサージ屋に日本人留学生がいたので、そのことについて聞いてみた。
やはり韓国で美容整形は至って手軽であり、他愛のない珍しくとも何ともないことだという。
友達連れ立って、東に格安キャンペーンがあれば鼻を治し、西に特別キャンペーンがあれば目を大きくする。
不具合をちょいと手直しする気軽さ。
女性として、良き嫁ぎ先を得て安定した暮らしを手に入れるには、見目麗しくなるのが、もっとも効果的で手っ取り早いという考えらしい。
親も我が子の顔面開発工事に積極的だという。
男であれば、よっぉ男前!!と一生言われることがなくても、屁でもない。逆に、色男金と力は無かりけり、と揶揄されるくらいのもんである。
しかし、女性であれば、「あなたは美しい」と男の嘆息を誘うようなことが皆無だというのは、経済的な意味以上に影落とす寂しい状態かもしれない。
それが美容整形でたちまち解決。
バトン一振り、無機質の石ころが匂い立つほどのパンやケーキに早変わり。見向きもされなかった岩石が光を放ち、男性の視線を集める。
それでは済まず、男性は人生を捧げるまでご執心となるかもしれない。
不美人にとって、美容整形に携わる外科医は、美の所有を万人に開く救世軍と言える。
美貌の値段は、数十万でお釣りがくるほど。誰でも手が出せる。
遺伝子の記載と異なる容姿となった女性に、人間の思慮を超えた実害があるとも考えにくい。
であれば、美容整形へと流れる力学を制止することの方が困難だ。
美容整形の是非についての見解は、立場によって異なるだろう。
海を越えた遠い地のことであれば、女性が軒並み美しくなるのは、何はともあれ、お目出度いことだ。
生まれ持っての美貌の女性からすれば面白くないかもしれない。
生来のアドバンテージが、無効となる。
美人価値の暴落。たかだか数十万で美貌は万人が手にすることができるのである。
他人様の手術の失敗と過度の依存による顔面崩壊を心中願い続けることしかできない。
自分と瓜二つの顔立ちの娘がいることを想像してみる。
そのままでは先立てない。
結論は明解だ。
全身麻酔で一時眠ってもらい、生まれ変わってもらわないことには、死んでも死に切れない。
娘の夫となる男性には、多少なり心の痛みを感じるかもしれない。
「うちの娘は、本当はわたしに瓜二つなのだよ、そっくりなんだ、、、すまない」という言葉を押し殺しつつ。
その娘をもらう夫の立場であれば、どうだろうか。
工事着工前の姿を知っていて、そこに違和感を持っていないのであれば、その後、工事が竣工し軽微な変更工事が繰り返されても、別段抵抗は感じないだろう。
賛同さえする場合もあるだろう。
問題は、もとの姿を知らない場合。
アンタッチャブルでブラックボックスな不美人時代が存在し、その当時の姿が、とても生理的には受け入れ難いという容姿であった場合である。
ちょっとは煩悶するのかもしれない。
しかし、受け入れ難いと言っても、顔自体に実害ある毒素が塗りこめられている訳はなく、多少造作が異なっていただけで、それも既に「治癒」したのだ。
そう考えれば、自分のロレックスがコピー商品やったんやという程度の軽い失望で済むだろう。
しばらくは、意識の淵に、バッタモンやったんや、というモヤモヤが居座るにしても、それもそのうちどうでもよくなるに違いない。
その姿の奥に、不気味な物の怪がいるのだと想像しても、その面影をいちいちイメージ喚起して、怖がってるヒマもなければ、体力も続かない。
それに、もともとは物の怪でも、「治癒」により、観音菩薩となっていることも考えられる。
目に映るいまの姿が、すべてとなる。いま現在の見た目が、解釈まで遡って規定していく。
その意味で、見た目が全て。綺麗になったもん勝ちの世界ということなのだろう。
追記(2011年6月4日)
ところで、男の場合は、アーティストでもない限り美容整形は特別な場合を除いて無用だろう。
アーティストなら、自分自身含め一個の作品である。自分を虚飾という衝立の向こう側に追いやって、作品を研磨し、より良いものを生み出していく必要に迫られる。
それ以外の男の場合、美容整形では実は大したものは得られず、むしろ精神的に最も大事なブス男パワーを殺がれるマイナス作用の方が大きいのではないか。
ブス男パワーは日々の闘争に欠かせない貴重な活力源である。僻みやコンプレックスといった類いのものとは違って、自分を盛り立てそんなもん気にしてたまるかという、自負心の源泉。
それが殺がれることは、男を続けていく上で甚大な損失だ。
自己改造として美容整を選択し、かっこよく見えたところで、およそ見込み違いで出口の無い、男として遠回りの道へ一歩踏み出したに過ぎない。
自分の顔のことを気にする程度の男が、社会で一体どんなコミットを為せるというのだろう。
いちいち鏡見て自分の顔をああでもないこうでもないと気にして、写真をためつすがめつ、挙句に雑誌で理想の顔を探し出し、ついにはこっそり病院で顔にメス入れる、というプロセスは男にとって何の意味もない。
目くそ鼻くそ鼻毛あおのり位のチェックをすれば、後は何でもOK。がはは快活、何でも来いと向かっていけばいいのである。