KORANIKATARU

子らに語る時々日記

食事処

学生の頃から結婚するまで、外食に依存していた期間は、10年を越える。
一体何を食べていたのだろう。
立ち食いソバ、コンビニ弁当、即席ラーメン、食堂の定食、居酒屋のつまみ、たまにファーストフードのハンバーガーなど。

思い返せば、一部の定食を除き、なんと粗悪で酷い食事をしていたことか。
カロリー過多だけでなく、有害なものをずいぶん過剰に摂取してしまったに違いない。
しかも喜んで食っていたから、バカ丸出しである。

三つ子の魂百までではないが、根深く形作られた外食習慣は、結婚後当初も先祖返りのように時折姿を現し、空腹で目覚めた早朝にコンビニ弁当を食べたり、外出先でラーメンを食べ、小腹が空いては立ち食いソバをひっかける、ということが度々あったけれど、その中で、まず真っ先に、コンビニ弁当が、食えなくなった。

あのプラスティックの容器は物悲しい。
ご飯に独特の臭いがあり、揚物の油は産業廃棄物まがいのベタベタさであり、全体的にケミカルな風味が漂い、吐き気さえ誘う。

ファーストフードへ行くこともほとんどなくなった。
そこで供されるものは、食事というより、工業製品だ。
我が子に、さあ食え、どんどん食えと、とても勧められない代物だ。

駅にあるような立ち食いソバも、あのダシの後味の悪さが不快極まりなく、麺も蕎麦というより粗悪なデンプンの固まりでしかない。
最近立ち寄ることがなくなった。

居酒屋については、学生の頃や20代の頃に馴染んだような店に行く機会がない。
居酒屋チェーンのような店に行くことが仮にあったとしても、そこで食事に手を付ける気にはなれないだろう。

その他、最近小食を心がけるようになって、味覚感度が増したのか、丼物のチェーン店でも食事する気が失せてきた。
何か食べようという場合に、不気味な食材や風味を避ける自己愛くらいは最近持ち合わせるようになったのである。

以上、つらつら列挙し思い当たったのだが、誰が作っているのかよく分からん類いの食べ物というのは、食事を選択する際に、最初に振るい落とされる。
一見料理している風に見えなくもないが、あれは「料理」というより、「処理」を行っていると言った方が的確だ。

低価格競争時代の折であれば増して、赤の他人が口にするものについて、いちいち構っていられるはずがない。
食材を厳選しています、などといったところで、商業上の必要性に迫られたポーズにしか思えない。
要は、安く旨いと錯覚させるようなものを手際よく提供できればいいのであり、料理としての気遣いなど単なるコスト増、邪魔なだけである。

含有物の成分分析など出来るはずもないが、塩分ひとつとってみても、その有害性は推測できるはずだ。
概して、過度に塩分過多であり、食後必ず喉が渇く。
この一点からでも、基本的に外食では、「食事する人のカラダを気づかった食べ物など出されない」と知るべきだ。

そんな中、良心的で信頼できる料理人に出会えるなら、その店は貴重でとっておきの存在となる。
昔、新婚旅行で訪れたエディンバラでイタリアンを食べたとき、全く塩味がなく、この国ではイタリアンでさえまずいのか、と辟易し、塩をふりふりし食べた記憶がある。
しかし今思うと、塩分について気遣いがあって塩加減は客任せにしてくれる良心的な店であったのかもしれない。

そして、信頼できる料理屋以上に、家庭で料理が作られ、家庭が食事の中心地である、という在り方が最も望ましい。
世の中いろんな料理の場があれど、母親が子に作る料理ほど、安心して口にできるものはない。
中にはエセ手料理でびっくりするようなものを食わせる母親もあるようだけれど、、、

将来、子らが外食任せにせず、家庭で手作りの料理にありつけるなら、幸運なことである。
万一の場合に備え、自分でも料理できるくらいになってもいいのかもしれない。
食事に際しては、自分の身は自分か家族しか守ってくれないという見識が原則になる。