KORANIKATARU

子らに語る時々日記

名場面を刻め

生まれた頃から家は本だらけだった。
狭い家なのに、どでかい本棚に本がぎっしり詰まっていた。
物心つく頃には、(繰り返しになるが)狭い家なのに子供4人にそれぞれの机が設えられた。
中学生になる頃引っ越した。そのとき父が買った最も高価な家具はやはり子らの机と本棚であった。

父の意向を満たすことなく、本棚の書物のほとんどを読まず無駄にしてしまったし、どでかい机の割には、勉学にも励まずそれは反省しきりなのだけれど、父の子4人は、皆が皆、本の虫になった。

今度は私が父となり、同じようなことを繰り返している。
子らが読みそうな本は見境なく買って帰るし、机は、家内の見立てだけれど、ちびっ子には不似合いな最上等のドデカイものである。
子らが本に馴染む前にはマンガもどっさり買い込んだけれど、何とか本を読む習慣がついてホッとしている。
私の父がそうであったように、私も、子らに本を読む男になって欲しいと願うのである。

本については印象深い1シーンが胸に残る。
かつて東京で勤め人をしていた若き頃のことである。
ある日の昼休み、たまたま目の前で同僚が文庫本を読んでいた。
そこに、白髪の上司がニヤニヤやってきたのであった。

コロンの匂いがやたら鼻につく、やり手ビジネスマン気取りの、意気がったオッサンであった。
中古のBMWに乗っているという噂だった。

どれどれ、何読んでるんだい、とオッサンが同僚の本をのぞき込む。
同僚が読んでいたのは世界文学か何かの古典小説だったようで、オッサンは顔をしかめ、「そんなもん読んだって、役立たない、何の意味もないよ」と周囲に喧伝するようせせら笑った。
同僚は、恐縮ですみたいな顔して、ヘラヘラしていた。

オッサンの考えを想像できないことはない。
小説、特に世界文学の名作など、ビジネスの世界ではピント外れも甚だしい、現実に背を向けた引っ込み思案の駆け込み場でしかない、御託はいいから、とっとと現実世界で成果を出せ、金稼げ。
仕事の現場で大事なことは、何一つそんなところには書いちゃいないのだ。
オッサンは心底そう思っているのだろう。

しかし、そのオッサンの言葉が、皮肉にも逆説的に本読みの重要さを如実に示した、と私は思った。
本を読まない男の言葉ほど、空疎なものはない。空疎と書いてカラッポ、と読む。
この上司の話すこと一部始終が薄っぺらで上滑り、ボキャブラリーが乏しく論理も稚拙。
話題はゴルフと酒とわい談、それに雲をもつかむようなビッグビジネスくらいしかない。
そして、コロンが胸焼けするほど臭いのだ。

本読みによって、言葉世界が形成され、それが内面に格納される。
そして、内包された言葉世界が、その人を媒介にし、「語る」のではなく「響く」。
本読み以外でも深みある響きを感じさせる人間はいくらでもいるが、内面に堆積された奥ゆかしい何かは忖度されるしかなく、表現されるには言葉による他ない。
だから言葉は必要で、本を読めるなら読むに越したことはない。

言葉世界が肥沃になればなるほど、世界は濃密多彩となり、五感は更に豊かなものとなっていく。
人の気持ちが分かるようになり、眼差し一つとっても、漫然とした風景の中から名場面を抽出できるようになる。
名場面の蓄積が人としての奥行きを形成し、他者の共感を生む人間性を醸し出す。

本をたくさん読むことである。
名場面を数々刻め。