先日、ミナミの小さな飲み屋に寄った。
冷えたビールを味わいつつ仕事の兄貴分相手に「熱中症気味でだるい」といったお気楽な話をしていたところ、カウンターの並びで飲んでいた男性が話に入ってきた。
7年前に熱中症で23歳になる息子を亡くしたという。
以来、酒浸りで体調が思わしくなくなり、病院をあちこち回った。
ストレスが主因の糖尿病と診断され治療に取り組むが、調子は一向に良くならない。
さらに病院を転々とし、恐る恐る駆け込んだ精神科で、はじめてじっくり話を聞いてもらった。
その精神科医とは30分話すだけで本当に心が和らぐ。
セロトニンを増やすクスリを処方され、それがよく効いた。
日常生活を送れる程度には回復した。
いまもそのクスリが手放せない。お守り以上の存在だ。
クスリの話が出たところで、私も同じクスリを飲んでますよと、これも並びの一人客が打ち明け、立て続け、向こう側の一人客は、数年前からパニック障害なのだという話をし始めた。
高速道路を運転していると動悸が尋常ではなくなり視界が暗転する。路側帯で1時間ほど休憩しなければ動けない。
みなその店の常連で、顔を知る人ばかりであったが、そのような何かを抱えているなど察することなどできなかった。
例えば、頑健そうな体躯の男性が心持ち片足を引きずって歩いていたりすると、ああ痛風発作なのだな、お気の毒に、と推測できる。
これは見える。はっきり。
しかし、人のメンタルな世界は見ることなどできない。
飲み屋のカウンター越しに、各人で「心の不具合の見える化」が行われる。
通常人前に出すなんて御法度な我が身の話題、他人相手に首突っ込むのが憚られる身の上話などが、目立たぬ狼煙のように、あちこちゆるゆる立ち上るといった様相。
その連鎖の中、私も例外になれず、仕事の納期が迫ってたいへんなんですわ、みたいなことを誰にともなく言ったりなんかした。
不思議なことであるが、各自のメンタルの不調が自覚的・客観的に語られる場では、ぐっと人的な距離が近づくようだ。
鎧を一時脱いで舞台裏でくつろぐような、まるで、気持ち馴染んだ同級生らと一緒に過ごすような感覚になっていく。
そして、それぞれ負う憂いのようなものが、カウンターで飲む人数の頭数で割られ軽減、煙のように消えていく。
気持ちがすーと楽になるような居心地の良さ。
一献酌み交わすことで稀に得られる数少ない効能の一つと言えるだろう。
たまには飲み屋もいいもんだ。
追記
ふっと瞬間現れ、一杯410円だけ飲んで去っていた隣席の客の話。
彼は断言した。
最近、離婚が激増している。理由は、夫の残業と出張が減ったからだ。
狭い家で財布逼迫して夫婦顔合わす時間が増えれば、どうしたって不満をぶつけ合う。
毎日休みなく喧嘩のゴングが鳴り続ける。
家庭は心にぽっと温かな灯がともる場所どころではない。戦火やまぬ凄惨な生き地獄。
精根尽き愛想も尽きた頃、地獄から逃れる方法は一つだけ。離婚しかない。
一杯のビールを飲む前に、290円のラーメンを食ってきたと隣席がいう。
計700円使っただけで女房になじられる。喧嘩を避ける為、外出で使った700円が、次の喧嘩の種になるんですよ、女房も働けばいいのに、と彼は笑って、ほな行きまっさとチャリンコにまたがり消えていった。
店内に流れる曲は、山口百恵の「さようならの向こう側」から久保田早紀の「異邦人」に変わった。
彼の武運を祈るばかりである。