つづきである。
塾での勉強など、「答えのある問題の勉強に過ぎない」し「詰め込み教育」でしかない、若年から染まるのは有害だという説も聞かないことはない。
しかし、当の内容を知れば考えが変わるだろう。
塾でやっていることは相当に高度だ。
理科は、高校物理や化学の概念を普通に扱っている。
算数など通り一遍の反復練習で太刀打ちできるものではない。公文で高校生レベルに進んでいようが方程式を駆使しようが、公文のプリントを1000枚こなそうが、何の役にも立たない。
イマジネーションを働かせる、出題の意図を汲む、結論を予測する、仮定する、場合分けする、そもそもに立ち戻って考える、検討漏れがないかチェックする、図を逆さまにする、小題の流れに乗り直して再考する等、ありとあらゆる思考回路を駆使しないと解決できない。
ビジネス書に書いてある論理的思考や水平思考など、塾の算数の勉強だけで十分身に付くと思えるほどだ。
この訓練をやるとやらないとでは、将来の知的アウトプットにおいて雲泥の差だろう。
それだけではない、正確な読解力、スピード、語彙、書き取り能力は大人を凌駕する。
歴史に通じ、星や植物の名を知り、自然現象への好奇心をも深めていく。
そんなハイレベルな内容を修羅のごとく訓練し尽くすのである。
将来必要となる思考の道具一式が身に備わり、ベースとなる知識も膨大となる。
塾で学ぶ内容だけでなく、それをこなす日々の習慣の獲得も貴重な経験となる。
欠かさず課題があり毎回復習テストがあり、毎月、実力競う公開テストがある。
このプロセスで、自律と自学自習の精神を、試行錯誤経つつ否応なく身に付けることになる。
いつからでも、どこからでも、勉強を始められるという素養が養成される。
もちろん塾も万能ではない。
ミスマッチになると副作用も大きい。
さらに、塾が掲げる「勝ち負け演出」も、どこかの段階で、親が除去消毒してやる必要がある。
「勝ち負け演出」は両刃の剣だ。
競争力がつく、能力が引き出される反面、人を見下すような、経歴で人を判断するような歪なプライドが形成される恐れもある。
そのプライドが邪魔して、合理的な判断が曇ることも大いにあり得る。
また、その演出に過剰適応しすぎると、子供なのに、先々に最も肝心となる意欲自体が枯渇する場合もある。
塾では、建前であっても、勝利至上主義、全勝主義の御旗が高く掲げられる。
子供たちは、それを目標にしのぎを削る。
しかし、親は、どこかで、例えば受験が終わった時など、塾とは反対の立場から、子に教えないといけない。
勝ち負けの基準は、本当は個人内面の指標であり、外在化し人がとやかく言うものでも、とやかく言われる筋合いのものでもない。
他人に押し付けられた勝敗など、勝った勝ったと喜んでも、ふと冷静に、おれ何が嬉しいんやろ、というようなものでしかないし、負けた負けたと悔しがっても、失ったものなど何もない、おれは一体何が悔しいのだろう、ということもある。
基本路線として強さを志向する姿勢さえ揺らがない限り、勝ち負けの基準は自分で決めるものである。
そして、人生は、千代の富士のように、15戦15勝できるようにはできていない。
全勝なんて、極限状態である。極限状態は危うさと背中合わせだ。
もっともっと余白のびのび成長できるよう、負けることを折り込んでバランスをとらないといけない。
ここ大一番、本当に大事な自分の戦いで見事勝利できるよう、普段は8勝7敗のペースでいければ御の字だ。
何を大一番とするかは自分で決めることだが、いずれにせよ、闘う時は必ずやってくる。
避けられない。誰かに代わってもらうこともできない。
結果がどうであれ、その大一番に向って、自らの能力を全部注いで立ち向かわねばならない。
そこに勝敗はつきものだ。
勝者と敗者の間には深い谷底のような境界が歴然と横たわる。
そろそろ、この大一番に、勝ち負けの演出にどっぷり浸かる一年が始まろうとしている。
成熟するための通過儀礼のようなものだ。
勉強しようという意欲がつきない限り、結果は、どっちでもいい。
もちろん、勉強しようという意欲の高い仲間たちと同じ環境にいられることを望むけれど。