KORANIKATARU

子らに語る時々日記

誕生日メモ

日記も滞るほど、やることが引きも切らない毎日だ。
日々の移ろいが早過ぎて、子らが誕生日を迎える時期であることをすっかり忘れてしまったかのようである。
もちろん、忘れる訳がない。

長男の誕生日は2000年11月1日、二男が2002年12月8日。
11月から12月が、我が家にとってもっとも目出度いシーズンであり、ハロウィンからクリスマスまでのスパンの中、我が家は何やかやとお祭りめいた雰囲気となる。

長男の時も、二男の時も、私は病院の待ち合い室で、その出生の瞬間に立ち合った。
二人のお出ましを、どこか遠い所からやってきた二人を、隣室ではあったが、ちゃんと出迎えたのである。
二人とも、空が白み始める明け方、ちょうど小鳥のさえずりが聞こえ始めるような時刻に、威勢の良い産声を上げた。

看護師さんに、生まれそうになれば連絡するのでどこかで休んでいていいですよと言われ、仕方なくバルナバ病院周辺の住宅街を真夜中歩いたことを今も鮮明に憶えている。
11月1日と12月8日の夜の時間が交差して、当時歩いた路面のアスファルトの風合いが目にありありと浮かぶ。

長男の時は、仕事後連絡を受けて夜中に一人で病院へ向かった。
二男の時は、家で「GO」という映画を一緒に観ていて急に産気づいたので大慌てクルマでバルナバ病院へ向った。
長男は実家に預けてあった。(長男は幼い頃から親元離れることが平気な子であった。)

連続して男の子がボンボコ生まれ、我が家の賑やかさは増すばかりとなった。今もそう。
二人がいなければ夜も日も明けない。

質実剛健に育てようと、家内はまだ小さい子らを自転車に乗せてプールやら体操教室やらに連れていき、男の子の常として、子らは、ガサツでじっとしておらず言うことなど聞くはずもなく、点でバラバラ、したい放題の腕白二人に振り回され翻弄され、何とか手のかかる幼年時代の世話を務め上げた。そして、今も同じようなもの。

せめて人並みくらいの見聞は身に付けさせようと、家内は博物館やら昆虫館(昆虫採集の宿泊ツアーに同行までした!)、ありとあらゆる「ため」になりそうなアクティビティに参加させてきた。
父はといえば、仕事に明け暮れる日々であり、我が家は母子家庭さながらの様相であった。

習い事も数々やってきたけれど、軽いお遊びめいたものは公文以外はとっとと卒業し、今は、浜学園で勉学に励み、芦屋ラグビーで心身鍛える形に収斂されてきた。
どっちもハードだから両立は生易しいものではないと十分承知している。
特にラグビーは相当にきつく、そんじょそこらの現代っ子にはとてもこなせる代物ではない。
それを曲がりなり何とかこなし、満足いくレベルではないにせよ勉強にも真剣に取り組む在り方は、きっと先々、身に根付いた強さとして二人の武器となることだろう。
その強さは、決して促成栽培できるようなものではなく、マニュアル本で体得できるようなものでもないので、財産とも言える貴重なアドバンテージだ。

その中で、いい仲間との出会いが生まれ、交流が深まっていく。
浜学園や芦屋ラグビーなど強い集団の中で、仲間と真摯切磋琢磨する機会を得られることは幸福である。
自らの在り方を、ビシッとMAXレベルに喚起してくれる強い友人らは、かけがえのない羅針盤として自分自身を照らしてくれる。
男子にとって人生の豊かさを決定づけるほど大事な要素である。

11月4日に、ミナミの英ちゃん富久鮓で、仲間と集まり、ひととき酒飲んで過ごした。
いっぱしの人物となった仲間らが歓談する中に身を置いて私は夢見心地の居心地良さであった。
みなそれぞれ、各自の格闘を乗り越えて来た仲間で、また各自の戦いにフル出力で立ち向かっている連中である。
だからこそ、エネルギーが交換し合えて、心の底から楽しいのである。

君たちのお出ましを待って歩いた夜道を思い出しつつ、将来、そのような仲間の中で楽しく語らう子らの姿が目に浮かぶのである。