KORANIKATARU

子らに語る時々日記

絵にならない

仕事柄いろいろな役所を回る。
市区役所、府庁県庁、労働局、年金事務所、職安、労基署そして準役所とも言うべき独立行政法人など出入りする場所はバラエティに富む。

各地各様お土地柄あるけれど、大阪市内およびその周辺は独特である。
あくまで、私の主観だけれど、相対的な比較でああだこうだ、というのではなく、大阪は絶対的に他所と異質な趣だ。

大阪では素の表情となってしまう場面が少なくない。
素の表情というのは、どう言うのだろうか、マリックの手品を初めて目にしたサルのような表情と言えば伝わるだろうか。
一度視野に入って通り過ぎるが、慌てて首を直角旋回させて視線戻さずにはおられない光景。
名場面珍場面の数は、大阪がダントツだろう。

大阪の役所で、小一時間でも地域住民の方々と同じ場所に身を置けば、大阪住民の実像が立体図のように浮かび上がってくる。
仁徳天皇は立ち上るかまどの煙の多寡から民の暮しぶりを推し量ったというが、役所に出入りする人々の雰囲気、装い、表情が、真実を如実に物語る。

大阪と言えば、テレビを通じて印象づけられた、吉本的な空気がまず思い浮かぶ。
間の抜けたような関西ローカルテレビ番組の演出と地続きで、さもそこに出演しているかのような紋切り型で陳腐な芸人言葉と所作振る舞いを、それが大阪人の任務であるかのように、実演し続けるキャラクターであふれる明るく楽しい街。

そんなテレビ的演出に自ら喜んで染まるお目出度い振るまいを目にし、気恥ずかしを覚えることもあるけれど、しかし、現実の大阪の一体どこに、そんなのどかでとぼけたような気持ち和む雰囲気があるのだろう。
実相は正反対で、ガサガサに干からびて生気ない草臥れ感が漂っている。
澱んで不活性な様子はもはや「お笑い」では取り繕えないレベルだ。
暗く、沈欝な大阪、私の目にはそう映る。

大阪という日本を代表するはずの歴史ある大都市が、お笑い風の色合いなど付けたし程度、補足的要素として語られるならまだしも、あたかも吉本的色合いが特色の最前面にあり、それがアイデンティティの主柱であるかのように取り扱われる様はいびつである。
そんな扱いを目にする度、憂い深める心ある大阪人は少なくないのではないだろうか。

例えば、成熟した男子がいたとして、「ほんまおもろい」とそれだけを自らの特性として前面に出しそれが取り柄の全てのように言われて、自得の念を深くするなんてことはあり得ないだろう。
そして、本当のところ、面白いような振る舞いは悲痛なほど空回りするばかりで、とどのつまり物悲しいのである。
付加的要素にばかり焦点が当てられるというのは、実は、本当に中身がないので軽んじられているか、無関心な相手に対する社交辞令のようなものであると知らねばならない。

大阪と言えば、吉本以外、他には何があるだろう。たこ焼き、ガラの悪さ、生活保護天国、、、それくらいだろうか。

何とも絵にならない。
大阪にあったはずの何かが見失われて、忘れ去られてしまったのではないだろうか。
もっと違った大阪の内実があったはずなのである。

子らが大きくなる頃、大阪像は、どのように変化しているだろうか。
誇りに思えるような魅力ある大阪となっているだろうか。
少なくとも、このままでは、このままだろう。