KORANIKATARU

子らに語る時々日記

波しぶき満喫

老人ホームの竣工式が昨日奈良の池部にて行われ、錚々たる面々の末席にてその式典に参加してきた。
池部の地について父から聞いた話がイメージ喚起し、式に臨む感慨はとても深いものとなった。

遡ること60年以上前、まだ幼い父は今は亡き祖母(父の母のことである)に連れられ、池部にて食料の調達を行っていたという。
大阪市内から列車を乗り継ぎ法隆寺あたりから歩いて池部周辺の農家を回って米や野菜を買い受け、それを背負ってまた長い道のりを帰る。

夜に差し掛かる遅い時間帯に散々歩いたという父の記憶に沿うように、重い荷物を背負って歩く幼い父と祖母の後ろ姿を探すかのように、式典の間、私は池部の山々、町の風景に見入っていた。

父の話を聞かなければ、何の変哲もない一郊外の農村地という印象のままだったろう。
遠い昔、食料が乏しいなか、父と祖母がこんな遠い所まで訪れて食料を求めていたという話が付加され、たちまちにして、その地が多重な意味合い放つ黙示的な土地として映る。

幼い父は、祖母(父の母である)をよく手助けした。そうせざるを得ない時代環境であったことを差し引いたとしても子供の域を超えた献身であった。
池部での食料の買い出しだけではない、日々の家計のためあちこち行商へ出かける祖母の最大の助手であったのが、まだ年端も行かない父であった。

君たちの年の頃、君たちのおじいちゃんは、遊ぶことなどもってのほか、足を棒のようにして各地歩いて母とともに働き通しだったのだ。

当時と比較すれば西宮で暮らす子らの暮しはこの世の楽園シャングリラにあるかのようなものである。

物資豊かなだけでなく、子らにとってもっけの幸い、個人尊重の観念の恩恵にも預かることができる。
曰く、自主性の尊重、褒めて育てる、自由放任、のびのび子育て、、、

閉じた身近な関係、親兄弟、じいちゃんばあちゃんの暖かい目線の中、好きなことをやればいい、頑張る気持ちが大事で結果は不問、全部できなくても一つできれば拍手喝采、というまどろむほどの居心地のいい歌がヨイショヨイショと流れる環境下に置かれる。
甘ったるい、弛緩したような世界は、あまりに心地よく、将来に渡ってその繭の内に留まりたくなる。

幸か不幸か、子供たちは、中には虐待の非道の犠牲になる者もあるけれど、大半が、骨抜きにされ、空気入れてもらって家庭用プールに漂う浮輪ちゃんのような楽チンさで過ごしているように見える。

その一方で、善し悪しは別として、社会自体は、世知辛さを増して行く様相だ。
この場では、99%全部完遂しても1%しくじれば叱責罵倒され、見向きもされなくなり、個人の性向など鼻にもかけられない。

顔の見えない不特定多数の人々を相手にしなければならず、なあなあでは通じず、常に競争に晒され、たゆまぬ努力研鑽から逃れることができない。

逃げれば即退場、さようなら、という厳格なルールのもと運営される世界。
そこは、個人の現在形を進化させ続ける者が支配し、それ以外の者は、出来損ないとして、強者のご機嫌を伺いその恩恵に預かるだけの、被支配に甘んじる立場に追いやられる。

善し悪しではなく、目を背けることなく眺めれば、そういう残酷な隠し絵が浮き彫りになるのが、現代社会の主要な文脈なのではないか。

そんな世界がええかどうかなんて論ずるよりも先に、そうなってしまっているのであれば、そこに立ち向かう耐性を備える、備えさせるという企ても栓無きことではないだろう。

そして、その耐性の付与は、家庭では難しい。
このご時世、家庭での厳しさの運用は容易ではなく、家庭という閉じた世界で一本調子の厳しさ続ければ家庭が自壊するということだって考えられなくもない。

そのようにつらつら考えるとき、芦屋ラグビースクールといった地域共同体が運営するスポーツクラブは、うってつけだったのだと思い至る。

実社会の文脈を感知させ、そこへ橋渡しする役割を果たす場と成り得ているのではないだろうか。
程よい緊張感の中、ハードな練習に取り組む子供達の姿勢をきちんと見守る役割と、上達を促すよう励ます役割の両方が備わり、もちろん厳格なだけではなく、手心加えるさじ加減も絶妙だ。

馴れ合いではないからこそ、そこで褒められれば心から嬉しいし達成感という大きな喜びを味わうことができる。
努力することの意義とその過程で得られる誇らしい気持ちを感得する回路が開かれ、雨が降ろうが風が吹こうが一歩踏み出し自ら企てるメンタリティが培われていく。

運営される事務局の確固とした理念、コーチの方々の情熱と見識、ホスピタリティあふれ良識ある保護者のどれ一つが欠けても成立しない。
それらが相俟ってはじめて組成され、地域の子供らへ多大な効用をもたらしている。
芦屋ラグビースクールの存在意義は、最大限に尊ばれるべきものだろう。

波紋のない家庭用プールを出て、四方八方から容赦なく「波しぶき」押し寄せる芦屋ラグビーで学ぶことが、「繭を脱する」最良解の一つとなり得る。
近所で良かったと思うのであった。
いまだ子育ての過程であり、結論ではないけれど、So far so goodである。

追記
明日の決勝に向け、我が家のフォワード君は濃密な内的時間を過ごしているに違いない。
今日はラグビーの話などせず、BraveHeartの映画でも観せた方がいいかもしれない。