KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ジャンピンダッシュ

夜10時頃、コンビニで何とも心もとない雰囲気で商品を探す少年がいる。
何かお使いを頼まれた様子だが、ぎこちなく不安げだ。
小学校の低学年くらいだろう。
ひとしきり探して少年はお目当ての商品を見つけたようだが、それを手に取りおどおど気詰まりな佇まいでレジに並ぶ。

レジを済ますと、店の前に停車中のクルマに猛ダッシュする。
しかし、何やら車内でママと押し問答している様子だ。
仏頂面で少年が戻ってくる。

店員に先ほどの商品を返品し、オムツの場所を尋ねる。
従兄弟の赤ちゃんがオムツを使うのだと説明を付け加えることも忘れない。

どうやら少年はオムツの購入を頼まれ、意味も分からずそれらしいものとして超熟睡ガードをオムツと思い込んで買ってしまったようであった。
そして少年は、彼自身がオシメする張本人と思われはしないかとそればかり案じ、募る羞恥心に自ら煽られて平静ではいられなかったのだ。

やっとの思いでオムツを手に入れ、少年はさっき以上のスピードで一目散クルマにジャンピンダッシュした。
羞恥心との葛藤からようやく解放され、車内でさぞ少年は安堵したことだろう。

しかし、少年よ、そんな程度、靴下に穴が空いた程度レベルでいちいち恥ずかしがっていては先々覚束ない。
そんな程度の羞恥では、ジャンピンダッシュするに値しないのだ。
恥にもいろいろな種類がある。
絶対に忌むべき恥がある一方、場合によっては、恥を恥とも思わず、平然と恥の局面に滞空対峙し寛ぐ程の面の皮、気の強さを発揮し呑み込んでしまわねばならない恥もあるのである。

私にも等し並みにジャンピンダッシュの記憶がないわけではない。
ジャンピンダッシュと言えば、一刻の猶予もない差し迫った状況にてトイレへ駆け込むシーンがまず思い浮かぶ。
大抵の人にとっても思い当たるところあるお馴染のシーンであろう。

ジャンピンダッシュについては、ある特殊な環境下で相当な訓練を積む経験をした。

インドでは滞在初日から十分に注意していたはずであったがお腹を壊した。
ジャンピンダッシュを繰り返す日々となった。

マドラスのお洒落なアイスクリーム店では、甘いアイスを一匙口した直後に、ジャンピンダッシュ。
そして、そこで初めて、彼の国のトイレの流儀に従うこととなった。
手桶で水をすくい左手に注いで清める。

差し迫ったジャンピンダッシュを余儀なくされる者にとって、トイレットペーパーの有無などさしたる問題ではない。
難を逃れられれば、それで十分なのである。
それまではインドでジャンピンダッシュする場合であっても、トイレットペーパーのある場所を嗅ぎ分ける余裕があっただけであった。
やせた牛のあばらのように貧相なトイレットペーパーでも、これまでの習慣しか知らず、それを見つけるまで辛抱したに過ぎない。
辛抱できなくなれば、どっちでもいいのであった。

今も記憶に留まる悲壮な人生最大のジャンピンダッシュもあった。
すでに間もなく瀬戸際、土俵際という状況であった。
しかし、あともう一駅で甲子園口駅である。
あともう一息の辛抱だと意を強くした瞬間、電車が減速し、車内アナウンスが流れる。
立花駅附近の踏切にて一般車両の接触事故が発生したという。
停止信号のため停車するのだという。

万事休すか、もう座席に座っていられない。
立ち上がり外界に手を差し伸べるようにドアに手を付く。
じっと歯を食いしばり耐える。
腹の奥底では激しくドアをぶっ叩くようなノックの音が倍加していく。
脂汗が幾筋も額を伝う。

いっそのこと気を失えればどれだけ楽か。しかし、気を取り直す。
絶対に負けられない。
その恥にまみれることだけは、回避せねばならない。
無残な姿を忌避する気概が、ギリギリの一線を踏み止まらせる。

30分もその責苦は続いただろうか。
気がつくと、電車がガタッと微か動き、ゆっくり動き出す。
希望の光が車内に満ちる。

いまかいまかと急くなか、やっとのこと駅に到着し扉が開く。
一歩目からジャンピンダッシュ、心奏でるテーマ曲はフラッシュダンス。What a feeling !
その時、ボールを持っていたらならば誰も私を止められなかっただろう。
華麗なステップで一気に駆け抜けトイレでトライ。
我が身を責め苛んだ包帯グルグル巻きのミイラ男を一思いにフラッシュしグッバイフォーエバー。

余談だがこの経験から、ひどく慌てている人、例えば、高速道路で猛スピードでジグザグに走り去って行くクルマなどを見ると、ああミイラ男の責苦に苛まれて尻に火がついているのだな、と察することができるようになった。
羞恥から逃れるため、クルマごとジャンピンダッシュの助走に入っている状態なのだと分かるようになった。

羞恥を拒絶するあのパワーは凄まじい。
奔流ほとばしるようなエネルギー生む激烈な爆発力と地獄の煮え湯ですらいい湯加減と持ち堪えてしまうような強靭な忍耐力。
これほどのパワー生む動力源が人間には備わっているのである。
自らが具現できる奥深い力として日頃から呼び覚ませるようにしておきたいものである。

開き直ってお漏らしダダ漏れの恥知らず風情が増える昨今であるが、男子たるもの、そんな恥ずかしいことはできない、という一線を自ら形成しなければならない。
恥を忌避する気概を失えば、あのパワーをも失うことになる。
そしてその一方で、そんなこといちいち恥じてられんという、恥への見識眼を磨く必要もある。

恥ずべきことと恥ずべきでないこと、その見分けは必ずしも明瞭ではない。
内なる何か、それがどこからやってきたものか起源と由来は定かではないが、確かに存在するその内なる何かの見極めにかかっているとしか言えない。
それを嗅ぎ分け活かせられるかどうかで、厚顔無恥で卑小な男となるか、豪胆無比で人望厚い男になるかの大きな違いが生まれるのだろう。