KORANIKATARU

子らに語る時々日記

仕事血流

油断するつもりはなかったが、この3連休で少々休みボケに陥ってしまった。
休みボケに陥ると、仕事血流がぐっと落ち込み、仕事と取っ組み合う矯めがなくなる。
デスクに座るも何とも空回りで本腰が入らない。

このつらさは筆舌に尽し難い。
例えとして思いつくのは、金縛りのようなものだろうか。

グッスリとカラダは寝入っている。
一方、頭の中では、原初の記憶綯い交ぜの夢が紡がれ、お定まりのクライマックス、「化け物に鉢合わせし踵返すが、気付かれ追われ、這うようにし命からがら逃げる」という生き残る上で出題頻度最大のシミュレーション場面に差し掛かる。
(この夢は我々の生存本能を喚起するため折々流れ、避難訓練のような役目を果たしているのかもしれない。)

しかし、夢見の状態によっては、実際に逃げようとカラダを動かそうとはするものの、夢の中のようには動けない。
何しろ寝入っているのである。寝たままのカラダを思い通り動かせる訳がない。
動け、と切に命じるが、一向にカラダは動かない。
恐怖に迫られつつ何もできないという、哀切極まりないあのもどかしさは、いつ終わるともしれず、目覚めるまで続くのだ。

仕事ボケに陥ると、そのような状態に陥る。
仕事しようとするけれど、カラダが動かない。
日常生活を送る程度の血流、満更でもないないことをする程度の血流はある。
しかし、嵩ある仕事をエイッヤとなぎ倒すには全然足りない。

仕事血流が上昇するきっかけを待つしかない。
自律神経と同じで、自在にコントロールできるものではない。
大和魂どころかゲルマン魂を奮い起こしたところで、無駄である。

運が良ければ、顔面ひしゃげる痛烈パンチのような仕事をお見舞いされ、正気に戻って一気に仕事血流全快する場合もある。
そうでなければ、悶々のうち、のろのろちょろちょろと血流の回復を待つしかない。
それはそれは、塗炭の苦しみに違いない。

仕事血流が回復すれば、あれだけイヤイヤと躊躇っていた仕事のプールに頭までざんぶと浸かり、チャプチャプはしゃぐまでに仕事を満喫することになる。
さっきまでの思い煩いは何だったのだろうと首傾げるほどに心穏やかな状態だ。

休日には魔が潜む。うかうかしていると仕事血流を奪われる。
毎度毎度休み明けに「血流ボケ」で苦しむくらいなら、休みなんていらない。チョット休憩するだけでいい。
恋がいつだって悲しいエンディングを迎えるなら恋愛なんていらない、ラーメンでいい、って話である。
休みに心奪われ復旧に手間取るより、仕事スイッチONのまま、ちょっと気分転換できれば御の字だ。

血流ボケを回避するには、二通りの方法しかない。
「休まない」か、あるいは「血流落差」を生まない仕事にありつくか、である。

そして本質的には、休みの要不要という問題ではなく、休みの過ごし方という問題でもなく、自分にとって血流増さずとも自然平穏な血流で満更でもなくこなせる仕事って何なのか、どうすればそのような仕事で暮らせるのか、それを見極め実現することだけが、問題解決につながる。
そうなれば、休みを乞い願うことも、休みの終わりに嘆息することもなくなるだろう。

ところで、巷はえべっさんで賑わっているようだ。
かつては、毎年えべっさんのお参りを欠かさなかった。
一時など、西宮戎に今宮戎、堀川戎という主要3箇所を参拝した。
しかし数年前、西宮神社赤門の前に人が溢れ入場制限までしている様に気後れし、商売繁盛などボチボチでええわと引き返した。
何も大混雑する時にお参りすることはない。
人がごった返せばごった返すほど競争率は跳ね上がる一方で、御利益も薄れると思うのだ。

今年も行かない。
えべっさんに行かずとも、散歩がてらたまに西宮神社で手を合わせる。
そのついで、えべっさんの笹でも買えばいい。
それで十分である。
危急の用もないのにごった返している場所に参じるくらいなら、明日に備え風呂にでもゆっくり浸かっている方が余程いいと思うのである。