KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ボチボチイズム

子らに向かって聞こえよがしに勉強した方がええでとは言うものの、私自身は勉強しろなんて言われたことがない。
実際に勉強も、それほどした覚えがない。
随時随時、瞬発的にぐっと勉強に取り組んだ記憶はあるが、平素から勤勉生真面目に勉学に勤しむ人間に40過ぎた今もなり得ていない。

そもそも私が塾に通い出し中学受験しようと決意した動機は、地元の中学、おそるべき荒廃を見せる中学に行く根性がなかったからであった。
地元の中学は反社会勢力を養成するための虎の穴のようなものであった。
そこで暴力について日々否応なく学ぶよりは、机に座って勉強する平穏な日常の方がいいと切実にそう願った。
勉強したいという大義名分の陰には恐怖心があったのだった。

6年生に差し掛かる春休みから当時塾の名門として聞こえ高かった阪神受験に通った。
当初私は、まるっきりバカであった。
初日に惨いほどのカルチャーショックを味わった。
やってる内容はちんぷんかんぷん、隣席の冷笑、えらいとこ来てもうたという肩身狭い思い。
そこへおかんが電車でやってきて弁当を持って教室の袖に現れた。
こっちに来るなと胸の内で叫んだ悲痛な声はいまも玉造あたりに響き渡っているに違いない。

頭がすこぶる良かった訳もなく、ねじりはちまきで猛勉強した訳もなく、まあ、ぼちぼちやってそこそこの中学に受かった。
大学もまあそこそこ。
生業とする資格も、まあそこそこ。
「娑婆の暮らし」を満喫堪能しつつ数カ月真面目に務め上げればパスできる程度。
全部が全部、全然たいしたもんではない。

突出する必要など全くなく、そこそこの勤勉さで、何とか食っていけるようになったのだから、勉強は「広き門」であると言える。
スポーツなら突出しない限りは、趣味の域を出ない。それで家計成り立たせるなど夢のまた夢である。

ほどほど好きなことしながら猫パンチ程度ちょこっと勉強するだけでも、恩恵はでかい。
勉強の福音について是非とも子に伝えねばならぬと思うのも当然だろう。
だから、勉強せよと言うのだが、ほどほどでええよと本音を漏らしてしまうと、子供の理解力では要求水準を曲解してしまう恐れがあるため、誤解生じぬよう勉強の大切さをくどく繰り返す訳である。

本当のことを言うと、勉強は大切だけれど、十種競技のうちの一競技みたいなものである。
カラダを鍛えたり、仲間と交流したり、いろんな本を読んで感受性育てたり、ギャグセンスを磨いたり、悲しい話に涙したり、笑い転げて幸せ満喫したり、勉強以外にもやることは尽きない。

時にはボーとすることすら大切だ。
気分転換したり、込み上がる不平不満を浄化したり、押し寄せるプレッシャーを受け流したりするには、ボーと間を置くことも必要なのだ。
過剰適応ばかりしていては、ボーとスイッチ切ることがうまくできなくなってしまう。

例えば、友人の古賀君は、算数5ページ分の宿題が手に負えず、簡単な最初の1ページを5回やるのが宿題だと勘違いしたふりをして、先生にそのノートを平然と提出し、先生が何かわーわー言っても、ボーと焦点ぼやけた顔で先生を見つめ聞き流していた。忍法しらんぷりの極意。
そんな高度な対人テクニックも上級者となれば身に付けねばならないのである。

そこそこ勉強し、関心が向く世界を思う存分渉猟し、後は神様の思し召し、人の縁と運次第である。
ぼちぼち楽しく生きられれば最高だ。