KORANIKATARU

子らに語る時々日記

さよなら夏の日

昨日のスッポンの効果か、とても快調だ。
友人ら5人でつついたスッポン鍋、その後の京橋での楽しい飲み会を回想しつつ武庫川を走ってきた。

一月序盤から仕事量が膨らみ続け月末には疲労がピークに達していたはずだが、気分がハイテンションになっていたのか自らの草臥れ具合を見誤った。
同じペースで仕事しようとするが何とも精彩を欠く。
「人生ほど重いパンチはない」とロッキーの言葉が頭に浮かぶまでになって、はたと気付く。
疲労が溜まっていたのだ。

疲れによって具体的な仕事量の認識が「目が回るほど忙しい自分」という曖昧模糊とした重苦しいイメージに変貌していく。
気疲れが自己増殖する悪循環だ。
こうなる前に、自分自身をケアしなければならない。
仕事に忙殺されると人様のことばかり頭に浮かび、自分自身を勘定に入れるのを忘れてしまいがちだが、自分の世話をするのも大事なことである。

まずは全身マッサージだ。
首や肩の凝り、慣れてしまって平気になっているが揉んでもらってはじめて疲労蓄積度に驚かされる。
もちろん、田中内科クリニックでのニンニク注射も欠かせない。
そして栄養あるもの食べてぐっすり眠る。
一昨日は焼肉、昨日はスッポン、そして今日も焼肉。
今朝、走ってきて疲れの一掃を実感できた。

ところで、武庫川で一人のご老人に目が止まった。
杖つきながら散歩の道中といった様子だが、静か佇立し少年野球チームの練習風景にネット越しじっと見入っている。

ネットの向こうでは少年らがコーチのノックを順々に受けている。
野球というスポーツは不思議な吸引力を持つ。
バウンドに合わせ少年たちがたくみに打球を処理する動きは視線を捉えて離さない。

老人の姿を横目にし走り過ぎたところで、耳にする音楽が山下達郎の「さよなら夏の日」に差し掛かり、我が子らが遊ぶ夏のシーンが蘇ってくる。
子らの背景には、夏が一番しっくり来る。
四季折々のなか子らの活動が最も盛ん活発になる季節だからかもしれない。

そして、人生の段階を四季でなぞらえれば、子育ての時期は夏だと言えるかもしれない、そんな考えが浮かぶ。
伴侶と出会って子をもうける春、育てる夏、巣立ちの秋、見守り役目を終える冬。

いつの日かその老人のように、すがすがしい冬の冷気の中、穏やか見守る側となっていく自分のことを想像してみる。
生きていくことは言葉に尽せないほど味わい深いものなのだろう。
まだまだ先は長い。
はるかその先に到達できるよう、自分自身にもっと優しくしてあげよう、そうすることに決めた。