KORANIKATARU

子らに語る時々日記

キンタマ・パワー

父親の務めの第一として、子らに自学自習する力は身に付けさせなければならないと常々考えてきた。
どこからでもどのような状況でも自ら勉強し立ち上がっていく力がないと男子にとっては死活問題だ。
学べば海路の日和ありである。

それで自学自習の訓練のため、塾やらに通わせ月謝を払うが、これは払って初めて分かるような結構な額である。
月々にかかる教育費を他に充てたら何が買えるだろう。
そんな空想を巡らせることもあるけれど、教育以上にお金をかける価値のものはないというお決まりの結論に至る。

投資として利回りがいいとか、名の通った一流校が世間に通りいいとか、そんな数値やブランド名についての皮相な話ではなく、人間として拠って立つ自信、平然と顔上げて生きるための不可欠の要素として勉強がとてつもなく重要だと考えるのである。

無理に勉強させて挫折感を味合わせると元も子もないよ。
そんな話も聞くが、長い人生、そもそもがそんなもん挫折のうちにも入らない、ドンマイドンマイ、と様々なアングルでの価値観を親が据えてやらなければならない。その上で、子の歩幅と脚力を考慮して、強弱匙加減しつつ勉強の後押しをしてあげればいいと思うのだ。

そして、父親の務めの第二であるが、親自身が、真っ当な人間関係のなかにあることが非常に重要であると近頃つとに思う。
親の因果が子に祟りという言葉は決して根拠のない迷信ではなく、人間関係ひとつとってもその功罪が子に影響するだろうと容易くイメージできる。

親が人間関係の中でネガティブな思いを向けられる立場で開き直り続け、我が身は事なかれで済んだとしても、そこで生じた悪意が子に悪影響しないと断言することはできない。こいつ、あの山田の小せがれか、後ろから押したろ、と卑劣なことを考える奴はいつの世も絶えず現れるのである。

その反対に、親が良好な人間関係の中にあれば、直接、間接を問わず、子も良き働きかけを受けることだろう。
例えば、私の友人が、私の息子とどこかで出くわしたとしたら、「おお、あいつの息子か、こっち来てご飯でも食べろ」と話聞いて、飯の一つでもおごってくれるに違いない。逆もそうである。

一事が万事にそのようなメカニズムが張り巡らせていると思えばこそ、自分が生きた足跡の中で、ぴっかぴかの人間関係を残したいと願うのである。
そして、ぴっかぴかの人間関係は得難い。

関わった一人一人ときちんと向かい合い、縁があれば、そこに人間関係が生まれ根付いて行く。
その連鎖が広がるか、ぶつぶつに破損するかは、本人の人徳と心掛け次第であり、ヘラヘラ名刺交換して付き合いが自動生成していく訳でもない。

三番目となるが、父親の務めとしてキンタマ・パワーについても触れておかねばならない。
はしたない言葉ではあるけれど、そうとしか表現のしようがない男子としての心象があるのである。
気概といった言葉よりも、原初的なニュアンスを多分に含む。

「おまえキンタマついてないんかっ」、と言われてしまうと男は終わりである。
ここ一番という状況で、相手と対峙し持ち堪えることが絶対に必要な場面で、心中はどうあれ、自分を前に押し出し平然と相手や状況に向かい合う気構えとして、奥底にあるキンタマ・パワーを呼び起こさねばならない。

ちなみに、キンタマ・パワーは、身近に凄みある人間がいれば学びやすいが、なかなか最近は難しいようだ。
テレビだとヘラヘラするばかりでバカになる。
本もいいが、イメージの定着で言えば、映画が一番かもしれない。

ヒトという種族が持つ最良のイメージが、人物、音楽、風景、そして物語に投影され、映像の連鎖となり描かれる。
ヒトにとって重要で本質的な何かが凝縮されたイメージとなって心に染み入ってくる。

それに気付いて、最近は仕事中にDVDで過去の名作などを流すようになった。
テレビをつけているより、音楽を流すより、仕事に取り組む臨場感が増し、所作振舞いに落ち着きのようなものも生まれる。
仕事場の気の流れが良くなるのかもしれない。

誤解してはならないが、映画で描かれる通りのヒロイズムに浸ったり、真似して飛んだり跳ねたりせよと言っているのではない。
名作には、男子にとってキンタマ・パワーの元になるようなエッセンスが底流に脈打っていて、それに触れることが大切だと言っているだけである。