KORANIKATARU

子らに語る時々日記

親父の背中

父は、息子がこんな気ぜわしい仕事につくなど望んでいなかったに違いない。

父自身は、気ぜわしいどころの話ではない、切迫した動乱の渦中にあり続けた。
でこぼこ編成の部隊を締め上げ統率し、その先頭に立って、明けても暮れても敵陣と一戦交え相手を粉砕、叩きのめし続けてきた。
一息もつくことがない仕事人生であった。

最近こそ一緒に酒を飲むようになったけれど、かつては団欒のなか言葉を交わすといったようなことはなかった。
まれに一言発する言葉を覚えているくらいだ。

私が高校生のとき、仕事に関して父が一言漏らした。
医者などの資格業は、本人自身が忙しくなる。
美味い飯食ってる最中でもポケベル一つで呼び出される。おもろない。
といって会社員というのはそれ自体息苦しいから、自分でなんかやったらええ。

父の真似ができる訳もなく、自分なりに人を使ってする仕事を見つければいい、ということなのだろう。そう解釈した。

しかし、世間に出てまずは痛感したけれど、「人を使ってする」仕事を簡単に組成できるものでもないし、第一、肝心の商売のテーマが見つからない。

父が過ごした、戦後の混乱期から高度成長時代にかけて、正体不明で正邪ないまぜの経済主体がどんどこ湧いて出てくるような、例えば、各地方に豪族のような土建業者が生まれ地域に根を張り巡らせていったような「昭和的生成」とも呼ぶべきメカニズムが、今の時代には全くない。

実際に、60年代の高度成長期に6~7%台あった開業率は80年代以降低下し続け最近では3%を割り込むまでになっているという。

何故なのだろう。

一昔前、そのままで居続けることがリスクであった。
何かしなければならなかった。
できることを何でもして、それを仕事にせねばならなかった。

例えば、ゴミを集める、行商に出る、重たい物を運ぶ、工事の現場作業をする。
身も蓋もないような一次的労働でも何でも身を投じるしかない。
経済活動になりうることは何でもしなければならなかった。
そこからスタートし、根気よく働き続け頭角を現した一群の者たちが、それらを事業へと成長させていった。

今は、何でもやらねばならないといった切迫感がない。
意識が危機感で占められていれば、生存本能が燃えたぎって何だってできるだろうが、何もそんなことをしなくても、食べてゆく事ができる。
何か事を企てねばならないほど差し迫っていないのである。

人がやらないこと、気後れするようなこと、恥ずかしいこと、困難極まりないこと、面倒すぎて気が遠くなるようなことを、覚悟決めて地道に始めなくても、求人雑誌を見れば、小銭を得る手段を見つけることができる。

もしうまくして、いい会社に潜り込めれば、一生お金に窮することはない。
そんな信仰まである。

しかし、会社が打ち出の小槌みたいに給料払い続けてくれるとかりそめにも思い込めるなんて、何とナイーブで可愛らしい信仰なのだろう。
きっとサンタクロースも実在していると信じているに違いない。
あどけない子供が「お金がなくなれば、銀行に行けばいいじゃん」と銀行に行けば誰でもお金がもらえると信じているのと同じくらい無邪気なレベルではないだろうか。

そんな信心の対象となり得る会社なんて一握りしかないだろう。

日々の生活の算段に追われ、とにかく何でもやって働くしかなかった大先輩方からすれば、いまの若者など、何一つ怖くないだろう。
なんじゃこの屁みたいな奴らはと思っているに違いないのだ。
だからたまに気骨ある若者が登場すると目立つ。

会社に雇われて、月曜から金曜まで仕事する。そんな牧歌的なことを露とも考えてはならない。決して人生の目標に据えてはならない。

給料をもらうという受け身の立場に身を置く者と、自らの生業によって稼ぎを得る姿勢の者ではのっけからテンションが異なる。凄みさえ醸し出すような主体性や自律心が宿るのは後者の方に違いない。

人の営みある所、今の時代ならではの「一次的労働」とでも呼ぶべきものはまだまだあるはずだ。
高次の仕事を望むならば気力体力だけでは足らず能力をどこまでも高めなければならない。

とどのつまり、雇われるのではなく、提供できるサービスを見つけることである。スキルや知識を身につけることである。自分自身のお客さんを見つけることである。手伝ってあげるよと対等に関わる立場を築くことである。

君たちが達するレベルからすれば大したことのない父であるが、君たちのおじいちゃん等の、負けじ魂の塊のような、鋭利な刃物のような眼光でする仕事への取り組みは並大抵のものではなく、しょぼくれた周囲の人間をも元気にしてしまうくらいのド迫力であったと伝えておかねばならない。

かつての昭和的生成の真っ只中、各地の「豪族」の中心にいたのは、そのような気概に満ちた精神性であったはずなのだ。

書類作りという前近代的な一次的労働に身をやつし、土日にも当たり前に仕事する父であるが、その姿から男にとっての仕事というものの意味を、少しでも感知してもらえれば本望である。

あの親父、しょうもない仕事を一生し続けとったなあ、と兄弟で笑って話題にしてもらえれば、これほどの幸せはない。