KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ラグビーがいいスパイスになった

新事務所の設営もほぼ整った。
書類を生む場として機能・実質優先の理想的な作業場として仕上がった。
後は、お使いや掃除、電話受け、簡単な入力をしてくれる事務員と10年前の私程度の馬力と危機感に満ちた助手が一人でも二人でも入れば新事務所自体加速し走り出すだろう。
3月11日から始まった新事務所設営作業はGW明けには全行程が完了する見込みだ。

そして小6長男の勉強も順調に進んでいるようだ。
昨年はラグビーに明け暮れ、今年は勉強に専念している。
両立なんて器用なことはとても無理なタイプである。
勝負どきはあれもこれもと欲張らず、クルーシャルなプロジェクト1つにのめり込めれば十分だ。
ごく若いうちに、自分の性質を知ることは意義深いことである。

ラグビーをさせず5年生のうちから勉強に専念させていればもっとずば抜けワンダフルな成績になっていたのではないかと言う意見もあるけれど、そんな単純なものではないし、第一、2年間も受験勉強漬けというのは少年期の過ごし方として少々不健全だろう。

あと1年で受験だという差し迫った臨場感があるから真剣に取り組むし成績も伸びるのだと思う。
5年生の段階だと無理矢理突っつきまわさねばならなかっただろう。
そもそも自立心培うことを勉強の主目的にしている。
勉強について、手取り足取りされない方が本人のためだとすら思っている。
突っつきまわすなど、その場限り、虚しいことである。

受験勉強に本格的に挑む前の1年間、ラグビーをさせたのは大正解だった。
何も勉強だけが子を育むのではない。
広い意味での知育には、机上のお勉強より遥かにラグビーの方が適しているとも思うくらいである。

意識を120%活性化し、必死のパッチでカラダ動かす必要に迫られるラグビーは子の正気を喚起するのに格好であったし、子をとりまく環境として、開放的でしっかりとしたコミュ二ティに恵まれたことは、子の将来に有益な何かをしかと残したはずである。

芦屋ラグビーは、奇跡的なほどうってつけな学びの場であったのである。

心身鍛えられる中、様々な場面に対処し、状況判断をし続け、多種多様な人物に触れることができた、このプロセスで得たものは計り知れない。
どれもこれも、机上の勉強で代替できるものではない。
ぐっと対象に肉薄対峙する胆力の芽も備わったに違いない。

中学へ上がる前の通過儀礼として、受験勉強2年より、ラグビー1年と受験1年の2年セットの方が、断然ハードで収穫もはるかに大である。
この二年で長男がどれほど男を磨き、人間としての基礎を確固とさせてきたか、母は後で知るだろう。
まだまだ外見も中身も子ども子どもしている風に見えるけれど、彼は既にいっぱし大人への道を歩き始めているのである。

ところで、最近では、たまに泳ぐ以外スポーツしていない長男であるが、タイガースの動向だけは気になるようだ。テレビを見ないがスポーツニュースだけはせがまれる。
関心の的はひとつ。タイガースは、勝ったのか。

タイガースは単なる野球チームではないし、選手は単なる野球選手に留まらない。
我が子はじめ全国のトラキチの子が、タイガースの勝利を、選手の活躍を励みにしている。
子らの意欲や自尊心といった、これから育ってゆく精神にとてつもなく大きな影響を与えている。
かつて我々が、掛布が放つ大飛球の軌道に心奮わせ、数々のホームランを鮮烈に胸に刻んできたように、我らの子らも縦縞の英雄から良き何かをもたらされている。

良きもの、良き人物に触れる、その記憶を糧として、子らは子らの道を、道なき道を突き進む。
1つ1つ成長の過程をたまに書き留め、感慨にふけることができ幸福である。

追記
子に教えられた。
毛並みの良さで知られる近所の大学のラグビー部副主将が神社のバイトで、客からは壁越しで見えないものの、下半身丸出しでお札を渡すなど接客をしていたという。
代々受け継がれる部活の余興であったらしい。

悪ノリもほどほどにしなければならない。
そこがどんな場所なのか、誰に言われずとも自覚できないで、一体何の大学生なのだろう。

神社である。
うちの祖母は、神社では必ず頭たれ手を合わせた。私もそうである。
わいわいがやがやお祭りめいていたとしても、老若男女が陰陽千差万別の思いを持って真摯に手を合わせる厳粛な場である。

稚拙低級な悪ノリほど、世に害を及ぼすものはない。
悪ノリを察知すれば、醒めた目で必ず距離をおくことである。
心しなければならない。