KORANIKATARU

子らに語る時々日記

天国と地獄

仕事の合間、軽く汗を流そうと事務所近くの銭湯へ向かう。
下駄箱の番号はいつも通り、年齢と同じ42。

下駄箱が88まであることにはじめて気付いた。
寿命がビジュアル一覧になったかのようだ。
42など、まだまだ半分にも満たない。

そして、更に気付いた。
私が、左端から2列目あたり、君たちと同じ9や11にいたのはついこの間のことである。
その当時、私の父は38だった。
あのとき父は、今の私より歳下だったのだ。

父はまもなく70となる。
配列の終盤に差し掛かっている。
38の父が、いつの間にそんなに歳を取ったのだろう。
瞬く間である。

1から88までの配列を、無慈悲なほどの猛スピードで順繰りに辿ってどこかで終わる。
何だか哀しく虚しいような気がしてくる。
なんと人生は儚いのだろう。
そこまであっと言う間なら、全てがどうでもいいではないか、そんな虚無感さえ漂い始める。

そんなことを考えつつ、湯に浸かる。
昼間の銭湯はことのほか気持ちいい。
湯船で脱力。だるさがほぐれていく。

しかし、風呂で安堵しつつ過ぎて行く一分一秒は決して「あっ」と言う間、という訳ではない。
時間は、ゆっくりと向かってきて、情まで移りそうになるほど、私自身に絡みまとわりじゃれあって、最後は未練がましいほどに手を取って、余韻深く過ぎて行く。

「あっ」という間に感じられるのは、過去の集積であって、未来はゆっくり生成し、徐々に現在として迫ってくる。
全然、「あっ」ではない。
そして、役目を終えた時間たちが、記憶だけを残して溶け、もはや量としての実感を伴わない過去となってゆく。

過去と未来は現在をまたいで対称をなし同一線上にあると思い込んでいたが、実は、全く別物、異質なものであるようだ。

過去は、巨大な画布のように、人の背景を為してゆく。
例えば、懐かしい音楽を聴いたようなとき、無数の過去の記憶が、瞬時に同時並列で、その画布に映し出される。
普段は意識しないだけで、すべての過去は、影のように不即不離でともにある。

未来は、その過去を作り上げる素材のようなものだろうか。
過去の色調は、日々の素材の加減で、一気に大きく変化する。

鉛色の過去であっても、幸福な素材が少しでも入れば、パッと華やぐような赤みが差す。
逆に、鮮やかで賑々しい過去であっても、墨汁たらせば、台無しだ。

おそらく、画布に映し出される絵柄が人を彩り、そして最後の最後の居場所を決める。
臨終に際し、走馬灯のように、と言うが、まさしく、最後の最後に、過去のあれやこれやが、人それぞれの色調で再現されるのだ。

出会った全ての人と再会が果たせ、濃密で充実した日々の喜び、感謝の念が込み上がってどうしようもないような、未来の良きイメージと過去の味わい深い思い出がとめどなく溢れ出すような、感動のフィナーレを迎える人もあるだろう。
反対に、恨み、辛み、屈辱、怒り、といったありとあらゆる苦しみの情念に責め苛まれ続けるファイナルもあるかもしれない。

最後の最後、一体どんな時間感覚となるのか、想像もつかない。
死によって未来の時間が途絶えるその瞬間、時間のない世界になるのだろうか。
もしそのとき、時間感覚が限りなく無限大となるようなことがあれば、その人は、最後の瞬間のなかに居続けることになる。

未来の時間はもうやってこない。その人が経てきた過去のみが居場所となる。

例えば、自死などで、なんでこんなことしてもうたんやろ、やっぱり生きたいわ、死にたくない、やり直したいと事を為した直後に正気にかえって、しかし死に向かい続ける悔恨の中に閉じこめられたとすれば、それこそ地獄である。これはもう、想像することすら躊躇われる。

できれば、しっかり生き抜いたという満足感とともに、よきイメージ、例えば子らとともに談笑し風呂にでも浸かって寛いでいるような、そんなシーンに包まれる時の中に留まりたいものである。