KORANIKATARU

子らに語る時々日記

母親の波紋

大和斑鳩の地を後にし、大阪へ向かう。
奈良が醸していた霊妙な余韻は柏原を過ぎると一切消える。
神々が佇むかのような緑濃い山々は遥か遠景に退き、ゴチャゴチャと入り組みガヤガヤとした雰囲気に四方を囲まれる。容赦なく陽射しが照りつけ蒸し暑い。大阪である。

市役所の支所に用事で寄る。
図書館の脇道にクルマを停めると、小さな男の子が、強く腕を引っ張られ、母親に叱責されている。
残虐で暴力的な殺気漏れ出し、完全にブレーキ外れたような形相の母親は、いまや大阪名物だ。

自分のお腹にいたはずの子を、厄介払いでもするみたいに、こっぴどくどつきまわして、引きずり回し、鼓膜破れるほど痛罵して、唾でも吐きかけるみたいな、そんなことが日常の一シーンとして同じ地続きの世界で繰り広げられている。あちこちでそんなことが起こっている。

その母親と眼が合った。我に返ったのか、少しトーンダウンしたようだ。

狭い支所に入る。
窓口で手続していると、一人の青年が入ってきた。
古くさい革靴とジャケットがどうも年齢に不釣合いである。
そして、体を終始動かし落ち着きがない。

あいにく窓口はどこも塞がっている。
青年は、私の真後ろに立つ。
ぶつぶつ言っている。
何を言っているのか聴き取れないが、待ってられないといらいらしているのだろうか。

身の危険を感じる。ここは大阪である。
邪魔やごらーと後ろからいきなり刺されるのではないか。
恐怖が込み上がる。後ろを振り返れない。
眼があったらどうすればいいのだ。プランがない。

やっとこさ一人の職員が青年に声をかける。(遅いのだ)
青年は住民票が必要なようだ。
職員が、所定用紙が備付けてあるカウンターを指差す。

青年は従い、そこへ向かうが、またぶつぶつ声が聞こえてくる。
はっきりとは聞きとれないが、用紙に記載してある文言を「まどぐちにきたあなたは」といったように声に出して読んでいるようである。
時々途絶える。読めない字があるのだろう。
記載にまではとても至らないようだ。

再び、青年が後ろをウロウロし始めた。
ブチ切れるのではないか。背後の気配に神経とがらせ身を固くしてしまう。

さっきの職員が声をかける。(遅いのだ)
今度は窓口の端っこで、青年と職員がマンツーマンで用紙を埋めていく。
そのやりとりから事情が分かってくる。

青年は、高校卒業認定の試験を受けるのだという。
住民票は出願のための添付書類だ。
青年は「お父さん」と二人暮らしである。
世帯主は「お父さん」で、「お母さん」はどこにいるのか分からない。

私は胸が熱くなり、同時に自分を恥じた。
身の危険? ごついカラダして過剰反応もたいがいにしなければならない。

就職か資格か進学か、目的までは分からない。
しかしいずれにせよ、彼は何かを企図して目標もって認定試験に挑むのだ。
頑張ろうと前に向っている青年なのだ。

そして、私の関心は、青年の話しぶりに移る。
すべておどおどしたトーンに貫かれている。
言葉尻が常に下がり、すぐに言い終えようとする。
早口である。相手を見ない。

発する言葉をちゃんと受け止めてもらったという記憶がないのかもしれない。
常に拒絶され、粗末に扱われてきたのだろうか。
どうせ言葉は届かない、そんな信念でもあるかのようだ。

彼の母というのはどこにいってしまったのだろう。
いろいろなことが考えられるのは百も承知で、勝手な想像をしてしまう。
幼い頃に、母親に散々ひどい目に遭わされた、そんな彼の姿が浮かんでくる。

幼少時の母親とのコミュニケーションの様子が、子の精神的な有様に影響及ぼすとは考えられないだろうか。
女の子は母親のコピーとなり、男の子は力づけられるか貶められる。
もちろんそうであったとしても、母親ばかりが原因ではあるまいし、責任なすりつけて文句を言っても始まらない。
子は自らの力でそれを跳ね返さなければならない。

彼には、本当に頑張って欲しい。
まだまだこれからだ。
目標を持ち、それに向かうと決めた時点で、これまでの展開を変える歴史が始まる。
現在の状況がどのようなものであっても、どのような制約のもとにあったとしても、是非とも夢を叶えてほしい。

ところで、君たちの話をついでにすると、母は、君たちがお腹にいた頃から、様々な愛称付けて、優しくずっと語りかけていた。
赤ちゃんの頃も、柔和な微笑み浮かべ、発するたどたどしい言葉のようなものを、実に楽しそうに幸せそうに聞いては、何度も何度も話しかけていた。
そのような温かで和やか交流に迎えられた人生のスタートであった。
具体的に思い出すことはないかもしれないが、何となく幸せだと思うなら、その記憶が元になっているのである。忘れてはならない。