KORANIKATARU

子らに語る時々日記

そのうち新天地

いつもは数人と面談するのだがその日は社長お一人だけが相手だった。
私より2つ3つ年上で40代半ばである。
黙っていても周囲を気押すような存在感が迸る。
人間の格が、そこらとはちと違う。

仕事の話が一段落した後、その社長から忌憚のない助言を受けた。

勿体ない、ということだった。
立派な大学まで出て、依頼されたことだけやるような、そんなコセコセした仕事しているなんて勿体ない。

勉強してきたのならもっと頭を使って、カラダを動かして、人を引き連れ、大きく儲けようとは思わないのですか。
できる範囲だけ提灯持ちするような仕事なら、怠けているのと一緒ではないですか。
そういう態度を怠慢というのですよ。

急に雲が立ちこめ、窓外が暗くなる。
雷鳴轟いたかと思いきや、雨が激しく降り出した。

社長は雷に反応もせず話を続ける。

いっぱい稼いで奥さんにいいもの買ってあげて、自分もいいもん身に付けようと思うことはないんですか。

その社長が身に付けるような上等な持ち物に関心を持ったことがない。
今後それらを欲しいと強く切望することも想像できない。
むしろ、そんな高価なものは自分自身の実用からかけ離れていて、身に付けた端から気になって気になって神経休まらないだろう。
そこらに放り出せない鞄、雨の中歩けない靴、カレーうどんを食べられないスーツ。
100%、窮屈で不自由だ。間違いない。

そう思い巡らしつつ、そうですねとムニャムニャ返答しうなづく。
社長が笑って言う。
その気になればいつでも協力しますよ。

その会社の1セクションなりを統轄し成果を上げれば、たいへん大きな報いがある。
一書類屋に身をやつすよりはいいに決まっている。
誰でもそのように考えるのかもしれない。

しかし、まず第一に私は書類屋の仕事にすっかり完全適応していて、違う役割を担わされても、操作操縦できるわけがない。
餅は餅屋で、歌って踊れる訳ではない。
だから社長の話を真に受けはしないし、世話になるなど考えることもないけれど、その助言自体はとても有難く参考になる。
なるほど、そんな在り方もあり得るか。

異なる立ち位置による見方は、自らを省みる貴重な材料となる。
普通、人は自らを省みることなどしない。ひたすら忘れるだけである。
そうありえたかもしれない自分、そうなっていくのかもしれない自分についての考察がお留守になり、時すでに遅し、後の祭り、もちろんラストーオーダーも終わりました、という刻限になって愕然とするのだ。

骨の折れる毎日であるが、充実している。
人にどう見えようと、愛着ある日常である。
ぽい、と粗末に捨てられるようなものではない。
(もし万一、誤った道にいて苦しいだけなら、たとえマイナススタートとなってもエイッとジャンプしリセットした方がいい場合もあるだろう。)

そして、この日常が続くうち、少しずつか一気かは知る由もないが、間違いなく変化が訪れる。
色々な想像はできても、今の自分には全く見えていない、予知できない変化である。

どうせならば、それは楽しみにとっておこう。
あまり余所見せず地に足つけて進みながらも、未来については、扉を開け放ち、様々な可能性や選択肢が出入りするような旅心を持った方が、ルンルンだ。

地続きで、数々の新天地へと到達してゆく。
80歳までの仕事人生で、一体いくつの新天地と巡り合えるだろう。
各到達地点で、へー、こんな風につながっていたのかと自らの足跡を振り返るのはさぞや感慨深いものだろう。

もしどこかで、新しい自分が豪華なオフィスで目の玉飛び出るような高価なスーツに袖を通していたとしたら、それも面白いことである。
持ち物など男子が眼中の真正面に置いて目指すことではないという考えなんていつ変わっても構わない。
どちらによせ、どうでもいいことだ
家内については、いっぱい買ってあげなければならないだろうが、どうなるか分からない、それについてはどうでもよくないので、その分君たちが買ってあげればいい。親孝行だぜ。