KORANIKATARU

子らに語る時々日記

背を向けるにもパワーがいる

アメリカ村は御堂筋を挟んで心斎橋の西側に広がる。
ミナミ自体既に独特の雰囲気だが、アメリカ村はさらに独自色が濃厚だ。
通りに立つ外国人、昼間から往来にしゃがむヤンキー女子、全身壁画みたいなタトゥーが目を射る青少年。

普段接しないカテゴリーに属する相手なので無意識に身構えてしまう。
しかし実際に仕事でコミュニケーションとる限りとてもハキハキ気さくで礼儀正しい。
清々しくさえある。
考えれば当然で、彼らも人の子、ファッションのコードが多少異なるだけで、そこにも人間関係があり、当たり前にマナーも存在するのだ。

初夏の陽光がギラギラ照りつけるアメリカ村を後にし、市内オフィス街の不動産会社を訪れる。
かつては強面であったが、古希を過ぎ通算成績圧倒的な勝ち越しで現場の任を終え、いまや至極穏やかな社長と面談。
アメリカ村の青年の礼儀正しさについて感心してみせると、社長がかつて仕切っていた営業部隊の話題となった。

軍隊式のマニュアルがあったという。
さしずめ社長は軍曹の役割。
挨拶のイロハから徹底的に仕込み上げる。
単に仕込むのではない。叩き込んで、仕込み上げる。
徹底的にやればやるほど、ちょっとやんちゃな奴でも、面白いほどコントロールできるようになる。

その話を聞きながら、かつて耳にした金融系の営業会社の話を思い出す。
目標が達成できなければ帰社させない。
成績不良であれば鉄拳制裁など当たり前。
コンプライアンスなどお構いなし。
結果がすべて成績が全てである。
素性不明の未公開株やら怪しげな金融商品をなりふり構わず売りまくる。

通常の市民生活繰り広げられる21世紀の社会と隔絶したような、前近代的な絶対的主従関係が構築されている。
下っ端は下っ端で、上役は上役でその役割に過剰過激に適応してゆく。
相乗効果で支配と屈従の関係はさらに強固となる。

おれは大丈夫、いつだってオレ流さという者でも一旦その構造のもと置かれると、一翼を担ってしまうことになる。
一見静かでも手に負えない潮の流れがあるように、そういった組織にも容易には抗い難い不可視の力が働いているのである。

どれだけ唾棄すべきことをする組織であっても、背を向けられなくなる、あまつさえ、そこで評価される方向に積極的に動いてしまうといったことがあるのである。

特に染まりやすいのが、真面目な奴か中身が空っぽの奴。
だから真面目で空っぽとなれば、完全染色。
さらに、一喝されることへの耐性を欠き自失してしまうと、薄気味悪いが、自ら進んでキンタマまで献上し、遠隔操作されることになる。

もちろん、怒られただけで萎えて逃げ出す甘チャンや、からっきしの能無しであれば、端から門前払いであり、そのような劣悪な組織であっても一員となることはできない。
組織の善し悪し以前の、誰かが優しくずっと面倒見てあげてね、という重篤な問題だ。

染まった奴は、世間にいくら迷惑かけようが何人の人を泣かせようが、自己完結したような組織内側の価値観に沿い、疑いもなく掲げた目標達成に邁進する。

そのような組織の中で、違和感を覚えつつ、お金がいる、他に行くところがない、背に腹は変えられないという理由で留まらざるを得ない者たちはさぞやつらいであろう。半ば正気で不条理に耐え、従順に振る舞い理不尽な業務を意に反し猛烈に遂行するのである。

それでもし万一、家庭でも安らげないとしたら地獄図だ。
最近結婚した早稲田卒のエリート金融マンは、誰もが振り返る若くて綺麗な奥さんが殴る蹴るの毎日だという。彼が、殴られ蹴られ、鍵かけられて家を締め出されるという。

どこにも行き場がないような閉所恐怖に似たような息苦しさが身に迫ってくる。

こういった状況に陥った場合に、何の気兼ねも躊躇いもなく「ほな、さいなら」とあっけらかんその場を去ることができるためには、どうであればいいか、考えておくことである。

職場の在り様を変えようと労力使うよりは、長居は無用、お愛想抜きで、三十六計逃げるに如かずと判断するのが戦略的である。
お金もらえる勿体ないと少しでも色気出して追従すればするだけ、依存体質に蝕まれ、自らの脚力を損なうことになる。
それ以上に、はした金で意に添わない任務強要されヘコヘコ従うような安く卑屈な男になってはいけない。
拒否したからと暴力に晒される時代錯誤的な組織であったり、威嚇威圧で人を制する未開未分化な力学が不文律の集団であったとしても、叡知駆使して手を汚さず無傷で帰ってこなければならない。

生活に困らない程度の貯金(無駄遣いの祟りはバカでかい)と能力に裏打ちされた仕事の選択肢(ふだんからボォーとしていたら選択肢は生まれない)、そういった日常的に心掛け準備しておく基礎的な条件の他に、お暇する際のメンタリティとして、自分の頭で考えて決然とした判断が下せる主体性、どう思われようが嫌われようが平然とできる強い信念、あとは度胸、さしあたり、そういったものが必要条件となるだろう。

軽蔑すべきをきちんと軽蔑するという、人としての基本的な排泄機能を果たすにもパワーがいるのである。
もちろん、健全に軽蔑できるためには、何が自分にとって本質的なことなのか、大切なことなのか、そういうことを時間をかけて考え知っておかねばならない。