KORANIKATARU

子らに語る時々日記

いじめについて知っておくべきこと

野田のこんぴらうどんは安くてうまい。
うどんとおにぎりで丁度腹八分目だから分量もお誂え向きだ。
天ぷらうどんをすすって事務所へ戻る。

うなぎの名店川繁にはすでに10人超の列ができている。
気温はぐんぐんうなぎ登り。
脳天吹き飛ぶほどの暑さである、そりゃ、うなぎがひっぱりだこになる。

と思った瞬間、その不謹慎極まりない言葉を自省する。

さきほどシリアでの民衆虐殺のニュースに触れたばかりだ。
無抵抗の住民が後ろ手のまま次々と後頭部を打ち抜かれ現在進行形で処刑されている。
ネットで子細調べようとするが、yotubeに収められている映像はとても正視できそうにない。
怖じ気づいてクリックすらできなかった。

沈痛な気分となる。
涼しい部屋で仕事については頭を悩ますがこれといって心配事もない。
しかし、広く世界には、差し迫った状況に置かれる人が山ほどいるのである。

ヒトの本質に残忍な暴力性が潜んでいる。
いにしえの日々を想像すれば、集団的に残虐な攻撃性をむき出しにした方が生き残ってきたに違いないのである。

現代人だと気取ったところで、その名残は血脈となり流れている。

身の毛もよだつ潜在的な原初記憶のようなものがあるからこそ、残酷な場面を正視できずにのけ反る、あるいは、その場面に強く何かを刺激され身を乗り出す、といういずれか両極端な反応を引き起こすのだ。

いじめや虐待も同根だろう。
何かの拍子で、暴力衝動のスイッチが入り、喜びの回路がねっとり湿って花開く。

文字通りの殴る蹴るだけでなく、悪口言う、無視する、ものを隠して困らせる、などでも同じことである。
要は相手が苦しめば苦しむほど、腸よじれ痛快だ。
その行為が許され賛同されるならば、ますます麻痺して快感に埋もれてゆく。
加害者にも事情汲むべきところがあるなど本末転倒ちゃんちゃらおかしい。
彼らは間違いなく心弾ませ嬉々として誰に強いられる訳でもなく自ら進んでそれをしているのである。

ヒトを見たら泥棒と思え、とは名言である。
ヒトを見たら、闘争と殺戮に明け暮れた凶悪なサルの子孫だとイメージすることも必要だ。

ヒトのうち、なかには人間性の度合いが強い者がいるだけであって、何でもかんでも人間だと思うと大間違いである。

太古の原罪として暴力性の刻印を残しつつも、それを抑止しブレーキかける「倫理観」があるかどうかで人間とヒトが分かれる。
悪の刻印むき出しの輩はほとんどサルに近いヒトもどきなのだ。

そういった人と猿の混在物が、平和な共存という理想を信じる知性と、現実には目には目をという抑止力とをもって何とか均衡を保っている。
暴力の応酬という歴史を脱しそれを回避する次元へと人類は進んで行くのかもしれないが、所詮はまだまだ過渡期である。

だから、自分や仲間がいつ何時、暴力の対象とされたとしても、何の不思議もない。
拮抗する勢力に属していないならば孤立無援だし、不当さを明確に訴え説得する力もなければますます窮地だ。
この場合は、決死の覚悟で攻勢に転じるか、機が熟すまでいったん状況から離れるしかない。

反撃するにしても相手をこてんぱんにしてしまうということではない。
相手への歯止めとして作用すれば十分だ。
炸裂する怒りを表現しないと、相手自身の行為について理解させることができないし、抜き差しならないことになるという暴力の恐怖を知らしめることができないからである。

胸に刻まなければならないが、誰かが助けてくれる、という前提は虚しいかもしれない。
現実の世界では仮面ライダーウルトラマンがこちらの事情に合わせて登場するなどまああり得ない。

ヒーローに頼らずとも普通は中学生にもでなれば、個々倫理観が醸成されて、いじめなどが起っても、バカなことはやめろとそれを抑止できる空気の方が上回る。
少なくとも33期の中学、高校の雰囲気はそうであった。

それが希薄な場があること自体信じ難いが、もしそうならば、その場を構成する大人の体たらくだと言うしかない。
子どもの世界は、大人社会の戯画となる。
サル性をむき出しにすることの恐ろしさと恥ずかしさ、倫理観を持つことの大切さを、身をもって教えるべき大人が無様さを晒している。
テレビつければうんざりするほどそんなことばっかりだ。
不心得者の肩身が狭くならない社会、憂うべきはそこだろう。

蛇足だが、最近、芦屋マダムの間で、年端もいかない子に地獄絵図を見せ恐怖で躾けることが流行っているというが、思慮浅い愚挙だろう。
阿鼻叫喚の絵図を見て、暴力性の封印解かれる子が出てこないとも限らない。