KORANIKATARU

子らに語る時々日記

白熱の夏

ぐっすり眠った。
朝一番、ホームに吹く風が気持いい。
暑さはまだ鳴りを潜めている。
ホームにはお坊ちゃんお嬢ちゃん連れの4人家族。
長期の夏期休暇なのだろう。
祖母がホームまで見送りにきている。

あと5分で始発電車が来る。
その家族の様子を見つつ、山から海に抜ける風にぴったり5分浸る。
毎朝出がけ、目に収める君たちの寝相が浮かぶ。

気合いを入れ直す。
長男の受験が終われば、家族連れ立って我らも旅行しよう。

姜がパリで章夫がローマなら、我らは行き先をどこに定めようか。
結論は家族会議の場に託するとして、おそらくはイタリアという鶴の一声に従うことになるだろう。
大番狂わせで四国道後温泉というオッズもゼロではないかもしれない。

小6受験の夏は、これはもう戦である。
精神的な揺れを体感しつつ、それをねじ伏せ朝から晩まで勉強の場に身を投じる。
繊細な心の持ち主が負のイメージに捕われると、たちまち置いて行かれ脱落してゆく。
どんと来いまだまだと、課題に追われ競争に晒されるストレスを片手一本くらいで押し返すくらいの覇気がないと、先頭集団に留まるなど土台無理な話だろう。

持ちこたえるために、子らに語る心構えは、強者の部類に入る大人レベルの流儀となる。
だらしのない大人もどきの在り方は全く参考にならない。
そんなものを基準にしてはならない。
目を凝らせば、世にはアヘアヘナアナアの勤め人がいるだけではなく、自己を律し自らの能力を磨き続ける、目を見張るべき大人も山ほどいると、察知できるはずだ。
そこを基準とすることである。

心構えは3つ。執念と気迫と諦観。
いつかそこに到達するのだという長い射程を見据えた執念、その場その場に対峙するための屹立した気迫、そして、残り一つは、後は知らねえという肩肘はらぬ諦観。

前に向かうと決めたならば負荷を跳ね返す強い気持ちが必要であるが、そればかりだとその炎熱に焼かれてしまう。
その一方で、とかく人の世はままならない、成る成らないは神の領域、確率論の話だと、開き直っておくことも大事である。
前に向かうが、それが全てではない、斜めに進もうが意に反し退却となろうが、一番大事なのは、その軌跡を進む我が身が充足し多くの学びを得ることである。

大人になって様々な期間を振り返ったとき、ぼーと過ごした時間よりは何かに取り組み必死になった時間の方が、遥かに輝き我が身を照らすのである。

西宮北口で目にする、塾通いの子の集団は異様に映る、という意見もあり、なるほどと理解できる。
子供は元気で大空のもと走り回るもの。
ところが、夥しい数の子らが、葛藤や抑圧を受けるがままの雨ざらしの状態で成就不成就の結果も定かでない苦役を強いられている。
そのように見れば、その様はネガティブな光景でしかなく奇怪に思うのも無理はない。

勉強を通じ、その子供たちの一定数は、大空のもと走り回るどころか、まるで大空駆け巡るかのような刺激に満ちた内的体験をしているのだと察するのは難しいことなのだろう。