KORANIKATARU

子らに語る時々日記

拾う神あり

夜明け前になると気温も幾分下がり涼しい風が入ってくる。
カーテンまで開け放ち夜風にまどろむ。
空が白み始めるとあちこちで鳥が鳴き始め、そして、セミの一群がそれに続く。
風に続き音そして朝の光が北側窓一面を覆い尽くす。

横に長男が寝ていて、枕元には合格体験記が置いてある。
寝姿を見つつ早く受験勉強を終わらせてあげたいと願うような気持ちになってくる。

クルマで事務所に向かい、朝の書類点検を終えて、間もなく申請やらで役所を回る。
かれこれずっとこのような毎日だ。

ペースに乗っているとつつがなく過ごせるが、一旦歩調乱れると、簡単には復帰できないレベルの緊張状態である。
皿回しがいくつも皿をまわし続けて、自働運動でそれは回り続けるが、一旦休止してしまうと、一つ一つの皿を始動させるのは、これはもう簡単ではない。
体感としてはそのような感じである。
さてぼちぼち、この皿回しの個人芸を、チームパフォーマンスに昇華させなければならない。

先日、ご高齢の経営者の方が入院されたので、お見舞いに行ってきた。
毅然とした風格はいつもどおりで、見舞いする私が逆に気遣いを受ける。
人生の大先輩である。
語る言葉の重みが違う。

お目にかかるたび感銘を受ける。
その日も例外ではなかった。

若い頃は、捨てる神もあれば拾う神もある、という受け身の態度でいい。
しかし大学まで行って勉強した大の男が不惑の40過ぎれば、拾われる側ではなく拾う側でなければおかしい。
勉強というのは誰か人の役に立つためにするものであって、自分だけええ目みてもそんなものは虚しく後に何も残らない。
いつまでも自分のため自分のためとチマチマ言うために40過ぎの人生があるのではない。
はっきりと自分は拾う側の人間になると決めてしまわないと、人生くすぶったままで終わる。

お見舞いし、おカラダの具合案じる立場の私が逆に力づけられ、何か迷いが吹っ切れたような気分となった。

40代はまだまだ洟垂れであっても、20代の小便小僧とは違う次元で物事を考えてないと、そりゃつまらないことである。
70を越え入院していてさえ誰か人のことを考えている方の人品に触れ、自分のことばかり考え続けるには人生はずいぶん長いのだと気付くことができた。