KORANIKATARU

子らに語る時々日記

現場の男

野田のなか卯は超満員。
堀内煙火店の花火職人が鈴なりで飯をかき込んでいる。
食べた者からバスに乗るよう指示がある。
長野からの遠征で真隣の東横インに宿泊しているのだろう。

今夜、淀川花火。
50万人の見物客を魅了する花火の仕掛人たちである。
危険と隣り合わせで、大阪の空を彩る精鋭らが朝の7時前に始動し始めた。
現場の男はいつだってかっこいい。

このところお盆を前に晴天が続き、休み心がかき立てられる。
旅行に出かける装いの人を見かけると刺激を受ける。
しかし、今年は旅行はお預けだ。
ならば休みも意味がない。

生殺与奪の権を握られ、使役される労働者ではない。
絞りに絞られて、ちょっと手加減してもらって、はあはあ息を継ぐ立場ではない。
ぐっすり眠って目覚めれば、当たり前のように勤勉な一日を積み重ねて行く。
お盆であろうが正月であろうが、それだけのことである。
せめて旅行し、全身の空気を大換気しリフレッシュするならまだしも、労務者気分で休みだからと近場でダラダラと過ごしたところで、むしろ不全感が募り、仕事復帰もままならないほど、精神的な疲労が倍加するだけだ。
だから旅行しないならば、墓参りは欠かさないけれどあとは生真面目に仕事するかその準備に勤しむのが当たり前、そのような過ごし方になる。

誰が何と言おうが勤勉を旨とする家系である。
それで生き延びてきた。
不労所得で朗々と酔い歌い享楽に浸って過ごしたものなど先祖にいない。
天才はおらず、盗っ人もおらず、ただただ無骨に額に汗し髪振り乱し手間仕事に明け暮れてきたのである。

我が家の秘伝の極意は、他の追随許さぬ勤勉さである。

先日、合格体験記とやらを読んで笑ってしまったけれど、散々勉強さぼったにも関わらず高成績で何の苦労もしませんでした、という荒唐無稽な話を真に受けてはならない。
受験に際し辿ったはずの震えるような心の軌跡、その一進一退の繰り返しの中で、感じ得た境地など、それらを後輩に伝えようという真摯な言葉以外は、不心得な自惚れ屋か不謹慎な見栄っ張りの戯言である。
意に介す必要など一切ない。

逆に、他山の石とし、自らを厳しく戒める事だ。
かねてから、村あげてのお祭り騒ぎであっても、その片隅で、生きるか死ぬかの思いで息も絶え絶えの人がいる、そのような人のことを思える男でなければ意味がないと伝えてきた。
受験という孤独で精神消耗するような日々を送る後輩が読む体験記にどこまでも軽く浮ついた与太話を書くなんて、勉強する意味は何ですかとむしろその身を案じて後輩が配慮してあげねばならない。

一心に勉強するのである。
それくらい賢くならなければ意味がないではないか。
人の気持ちを案じ察することができてはじめて一人前だ。
そして、そのような眼力伴ったうえで、実力人望兼ね備え、現場で不可欠、頼みとされるような男であってもらいたい。