KORANIKATARU

子らに語る時々日記

Facebook

男は寡黙であるべきだが、しかしうんともすんとも言わないと、鉱物や岩石といった無機物質に対するように一部の物好きを除いて誰にも相手にされなくなる。

だから何かにつけ一家言くらいはあった方がいいし、それを発するツールも強弱使い分ける程度、備え持った方がいい。

私自身、情報発信のツールについて不案内ではあったが、カネシに薦められたことを契機に、facebookに登録し、twittertumblrと続き、livedoorでブログも書き始めることとなった。
後は仕事用のホームページを作るべきだろうが、そんな暇はない。

それでかれこれ、1年あまり。
1年積み重なると、情報の蓄積がじっくり振り返ることができる程の量となり漫然と日々過ごすよりは、一望のもと少しばかりは愛着強い鮮やか映える過去が出来上がる。

そして、この1年を振り返り、facebookが果たす役割の大きさと、道具として見たときの短所にも思い至るのであった。

一歩離れた友人などと、友好的な近しさを維持する上で、これほど恩恵の大きいツールはないだろう。
何年も何十年も口を利かなかった仲間との旧交が、当時以上に増して再生される。
それに付随して、同様に、かつて出会えば仲間となっていたであろう、新たな友達と知り合うことができる。

その一方、どんなモノにも長短あって、限りなく遠い場の人が混じってきたり、反対に、しょっちゅう顔合わすような身内とも言うべき間近さの人が入ってくると、取扱いの難易度が跳ね上がり、一切気に留めず無神経に発信し続けるか、もしくは、当たり障りのない発言に終始するか、はたまた、共通言語を探しあぐねてただただ押し黙るということになってしまう。

こうなると遠近使い分けた、言葉の作法と接し方についての見識が不可欠となってくる。

同心円のドーナツのようなイメージになるだろうか。
中空は自分自身と身内のエリア、その周囲には実である陸地の部分が接地し、その向こうに無限に空いたスペースが広がっている。
その3つの部分ははっきりと性質を異にしていて、混ぜこぜにすると不都合生じかねない。

私や家族という領域の周囲をとりまくちょうど実体のあるパンの部分、そこが公私の境界となる部分で、facebookが最もよく活きる範囲ではないだろうか。

何事も初心者はお手つきをしてしまう。
行きがかり上、facebookの友達になったはいいが、お互いにとって何とも気を使ってしょうがないということも生じるようだ。
その場合は、窮屈さに甘んじるよりは、再構成すればいいのだろう。
別に悪気あってのことではない、といちいち説明せずとも、そのような慣習がそのうち根付いてくるだろう。

無限に広がるスペースには、細心の注意は不可欠だが、長距離砲でがんがんぶっ放せばいいけれど、陸地には、顔知る分だけ細やかな配慮が必要となる。
中空部分はむしろ逆に、多少の無礼講も許されるオープンな交流の場となる。

最近、Pathというツールを知った。
上限150人のSNSだという。
家族や身内どうしならこのサイズが最適ではないだろうか。