学校の教師といえば、いまや性犯罪で逮捕される職業ナンバーワンを断トツで突っ走るという印象が根付き、世間のまともな職業者からみれば一段も二段も見下してしまうような世間知らずが過半を占めるという見方が常識となりつつある。
性犯罪に手を染めるという点から、夥しい数の予備軍を含め、日々独りよがりなファンタジーをたくましくし、その自己完結した世界で野放図な悦楽に浸るという、実社会からは浮きに浮いた困ったさんだらけであることが容易に推測できる。
まこと油断ならない一団である。
そういった教師という人種の指導監督の対象とされる子らはたまったものではない。
先日、夏休み明け、ある子がミサンガを足につけ学校に来たという。
それを見咎めた教師が、外せと強要する。
学校の教師なんてそんなものだ。
何か願い事あって身につけたミサンガかもしれないが、専制君主である教師の許しなくそんな目障りなものつければ、外せと言われても子供では抗しようがない。
他の児童に悪影響及ぼす、クラスの秩序が乱れる、など後付けで教師は理由をいくらでも並べてくる。
その教師が不格好なグラサンをかけていて、児童に不快な思いをさせていても不問に付されるのとは大違いであるし、授業などせず下らない自慢話を繰り広げても、少し卑猥な話をしても、児童から苦情言い出せないのとは大違いである。
つまり、立場が違うのだ。
いくらその教師が地の底を這うような俗物でも、我が国の義務教育の現場では、まず立場ありき。立場が先に来るのである。
教育学部がどれだけ難関かは知らないが、教師の選抜試験という高倍率を勝ち抜いた選民、こんなに凄いなら東大でも受かったはずだと勘違いできるほどわきまえのないウブな人種なのである。
ミサンガは仕方ない、まあ学校では外しておこう。
長いものには巻かれろと塾でも習ったではないか。
私が同級生ならそう助言しただろう。
しかし、教師は嵩にかかってくる。
何と、他の児童を責め始めたというのだ。
同級生としてなぜ気付いた人が注意し、ミサンガを外すよう言ってあげないのだ。
見て見ぬ振りは同罪ではないか。
同級生として無責任ではないか。
教師の愚かさもこれ極まれりである。
その教師が認めないものを、児童は先取り察知して、除去しておけということなのだろうか。
そして、その教師は、同級生が自分のことで叱責されることで、居場所を失うミサンガ君の気持ちにも全く無自覚だ。
ミサンガについて問題提起し、皆でその是非について話し合おうというなら上等だ。
そうではなく、否定し、一蓮托生で皆を責める。
ここまでの権限を教師に与えて、それで一体、子らはまともな何かを体得してくるのだろうか。
夜郎自大な小役人の安物の実演を見て、あーやだやだと他山の石とするのが関の山ではないだろうか。
いまやお国が担うべき勉学の伝授は民間の塾が担っている。
指導者の学力も技術も、そこらの学校教師が適うレベルではなく、大半は塾では通用しないだろう。
であれば、学校の教師の役割は一体なんだろう。
時代の遺物として後方に退去し、できるだけ前に出てこない。
児童と接する時間はなるべく短くする。
中途半端で上っ面の知ったかぶりを一切話さない。
せいぜい、羊飼いのタイムキーパー程度の任務を果たし、後は、慎ましく、できれば置物のように、じっとしていてもらう。
それこそ尊ぶべき誉れ高い教師の役割となるだろう。
学校の若造の教師が、人間とはなどといったことを得々と子に話すなど噴飯である。
その話を真に受け、追従する子供は被害者とも言える。
教師の浅はかな価値の実現のため、特高警察気取りで同級生を責め苛み、総括させ、悔い改めさせる、そんな奴までいるというではないか。
何と罪作りな。
そうやって、大して深い考えのない陳腐で非生産的な規律主義が、男性的な承認に飢えた一部の子らに浸透してゆき、各所各所で、お目付ぶりを発揮する。
ひがみやっかみに覆われ、他罰的で自虐的、揚げ足ばかりとるような、何とも窮屈で消極的かつ同調的な世間が内面化され、死んだような顔の日本人が再生産されてゆく。
元気で威勢良く、自由な発想で可能性志向の道をぐんぐん進む日本人が、子供時代に殲滅されてゆく。
学校のあり方を変えない限り、世界の損失は拡大するばかりだ。