KORANIKATARU

子らに語る時々日記

パンチを喰らいながらひとり押し問答

小学校2年生の頃だろうか、上級生に張本という札付きがいて、突如そいつに路地に引きずり込まれ、ぼこぼこに殴られたことがあった。
不意打ちである。
目的も分からない。
当時の大阪下町では、殴られることに理由などないのだった。

殴られて痛いなどとは少しも思わなかったが、張本のスピードとパワーが強く記憶に刻まれた。
想像の世界でなら、張本が何かしてきたって、多少の反撃や防御はできるはずであったし、一矢報いることさえ可能だった。
しかし、実際にお見舞いされた張本のパンチは目を連続でぱちくりさせ続けたたときのようなぶっ飛びの速さで、掴まれた胸ぐらは鉄の鎖で締め上げられたみたいにガチガチロックで全く身動きしようがない。

圧倒的な力の差を体感した瞬間であった。
そのまま殺さないでいてくれて、感謝である。
もしあの場面で撲殺されていたら、最後の記憶は目まぐるしく花火のように炸裂するパンチだけではないか。
おっかねえ、おっかねえ。

長じた今なら張本にパワーでは勝てるかもしれない。
しかしスピードではどうあっても敵わないだろう。
張本が酔っ払いの廃人にでもなっていない限り、生来のスピードの差は埋めようがない。

パワーとスピードが一長一短、互いに伍して引き分ける、決してそのようにはならない。
運動エネルギーは質量に比例するが、速さについては、その自乗に比例するのである。
つまり、パワーとスピードがぶつかれば、圧倒的な差でスピードに軍配が上がる。
はやい男が持て囃される所以である。
力士がK1のリングで勝てる訳がないのである。

取り越し苦労はこれくらいにしよう。
もはや張本とすれ違ったところでどつきあいになることはない。
大人になれば、腕っ節で勝負するという場面は、場末の居酒屋でたまに拝むことができるくらいで、滅多にない。
揉めてもたいていは舌戦までである。

言わずもがなだが、場外で繰り広げられる舌戦などには首を突っ込まない方がいい。
あれは互いを罵っているように見えて、実は突き詰めれば、自らの人生を呪っているだけなのだ。

「なに調子こいとるねん、殺すど、わしをだれやと思ってるねん」というThis is a penレベルの基本例文が全てを物語っている。
要は「お願いだから僕のことを少しは尊重して下さい。僕は承認されたいんです。小さな頃は夢がいっぱいありました。でも全部かなわなかったんです。それで代わりにお酒を飲んでるんです。僕の上司みたいな嫌味を言うのは止めて下さい。上司なんて死ねばいいのに。もっと僕を大事に扱って下さい。みんな足蹴にしてばかりで、僕はもうかんかんなんだ」という意味である。

だから絡んでこられたら、言い返すのではなく、まあまあと一杯ついであげるのが正しい対応だ。
よく覚えておかねばならない。

もちろん、場外ではなく仕事などのフィールドで、パワーとスピード兼ね備えた猛者らと言葉を交わす場合は話が違う。
場外で行われるような、おれの気持ちはさあ、といった文脈など通じない。
言葉のやりとりは、明確な目的のもと、相手の考えや行動に作用し影響及ぼそうとする非常にテクニカルな働きかけの応酬なのである。
反応できないと相手にされなくなる、または被支配の立場に留め置かれる。

張本のパンチに対しては、イメージトレーニングなど何の足しにもならないが、言葉の応酬については予行演習が効果を発揮する。
数々の言葉の放射を受けて立つため、日頃から耳の奥の誰かとやりとりするのである。
何も練習していないと、いざというとき、あ、あ、あ、と意味為さない音を発するだけの陳列品になってしまう。

ひとり押し問答のプロセスで幅広い知識や考え方を吸収する必要性を痛感するだろうし、会話の際、わざと聞こえない振りをしたり、勘違いしたり、クルクルパーを装ったりといった超タヌキメソッドが存在することにも気付くことができるだろう。