KORANIKATARU

子らに語る時々日記

そのお金はそもそもたどれば一体誰のものか?

肌寒くなってきた。
事務所の行き帰りはジャージにしようか。
新しいジャージは子らが着るアディダスよりも安物でいい。
何もジャージで勝負する仕事ではない。
気安く汗がかけてまるめて洗えれば、あをによし、それでよし。

安物であっても品質機能に大差ない。
大人だから実質満たせれば、それで十分。
ただ腰の据わらない子供時分は、周囲が発するサディスティックな視線に翻弄されてしまいやすいので、それ相応の身だしなみするのが無難である。
例えば、ええおべべ着る子ばかりの塾で貧相な格好で肩身狭い思いさせることは親としてできない。
かつての私のように小6であってさえ、激寒真冬に半ズボンしか買い与えられず、おまえの家、長ズボン買う金ないんか、そんな幻聴に苛まれるオドオド感を君たちに味合わせるわけにはいかない。

しかし、大人になれば、ええおべべなど屁の突っ張りにしかならない。
男に装いは無用であって、おべべについてはごく普通のストライクゾーンがあって、そこに合致さえしていればいい。
間違っても、高めに浮きまくるゾーンに手出ししてはいけない。

敷居高い、いきった店で、何様ですかという相手に歯の浮くお世辞でカモにされ貴重な大枚はたくなど看過し難い話である。

もし君たちにそれを買う収入があったとしても、そのお金は、この父が顧客に頭を下げ、理不尽にどやされ、がっくり肩を落とし、それでも何とか奮起し爪に火をともし、孤軍奮闘粉骨砕身、連日神経をすり減らし、面白いことなど何一つなく、身内の誰にも気持を分かってもらえず、針のむしろの上でただただ孤独な自問自答を繰り返すなか、何とか捻出しつぎ込んだ教育費が、その源流にあるのであって、気安く深い考えもなしに、まるでおもちゃのように遣うなど、あってはならないことである。
その万札の後ろに死屍累々横たわる父の苦闘を忘れてはならない。

おべべ以外でも同じことである。
金遣いが少し無駄に傾けば、北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起るというバタフライ効果と同じこと、その駄菓子屋での不急不要な買物が、将来、君たちの財布を空っぽにし、通帳の残高をゼロにし、最悪の場合には、他人様に頭を下げ、さらに最悪の場合にはウソまでついて無心しなければならなくなるのである。
ご先祖様がそろって声をあげ嗚咽するような、そんな情けない惨状が絶対にあってはならない。
無駄遣い曲線を積分した解は、塞ごうにも処置しようのない無限大の空洞なのである。

誰が言ったか、目に見えるものはみんなのもの、目に見えないものは俺のもの。
至言である。
目に見えないものには大抵お金がかからない。
対して、目に見えるものというのは、金さえあれば手に入る、つまり誰であろうがアクセスできる、所詮はみんなのものなのである。
そこら転がるみんなのものに、お金吸い取られることはない。