KORANIKATARU

子らに語る時々日記

勘違いせぬようたまには人の暗部直視する映画も観ておこう

息も白む明け方、書類を入れるトートバッグを探す。
クローゼットの奥にしまい込んだバッグを引っ張り出す。
長男がタイガース応援セットを入れていたバッグだ。
この2年ほど長男は応援に出かけていないので、文字通りお蔵入りとなっていた。
中を開けると内ポケットから千円札が一枚出てきた。

この千円札が引金となり記憶が鮮やかに蘇る。
長男と二人で応援に行った日のことだ。
応援は、家族揃ってのこともあるし、都合により、私と長男、私と二男、私がのけ者、いろいろなパターンで甲子園を訪れるが、その日は私と長男の組み合わせだった。

球場前の雑踏、私が取り出した千円札が一枚風に吹かれ地を這うようにヒラヒラと飛んで行く。
それを長男が追い、仕留める。
なにしろ、彼は虫捕り名人である。
千円札など訳もない。
よしご褒美だ、その千円で今日は何を買ってもいい、と話した。

ところが、観客席に座り買物に行こうとする長男が言う。
千円がない。
お金はズボンの右ポケットか首から下げたジッパー付きの財布にしか入れない習慣である。
どこにも見当たらない。
捕らえた千円札がはばたいて飛んで行くわけはない。
長男がポケットに入れる際、道端に落としたに違いなかった。
千円丸儲けということで長男なりに興奮し、入れるはずのない場所に無意識で仕舞い込んでしまったのだろう。
それから2年ほど経過したある明け方、ひょんなことからその千円札に再会し、記憶から消え去っていた野球観戦のことを懐かしく思い出したのであった。

ところで、昨日「ドラゴンタトゥーの女」を観た。
通常、仕事場でDVDを流しても、ほぼ見向きもしないのだがこれは久々観入ってしまった。
スウェーデンの冬の景色がいい。
精神がキリリと引き締まるかのようだ。
そして、主人公らが謎に迫って行く姿にぐんぐん引き込まれてゆく。

Macが影の主役である。
数々の資料文献を精査し、着眼点を壁面いっぱいポストイットで埋め尽くす。
手がかりを方々探索し、Macに集約していく。
そして、ソファで沈思。
その繰り返しを通じ、じりじりと核心に近づいていく。
そこで描かれる任務遂行過程はまさに仕事に通底するものだ。
こちらの仕事意欲まで掻き立てられる。
今後、目にしたシーンが合間合間仕事意欲を喚起する映像群となることだろう。
タバコ吸うシーンもあって緊張が束の間ほどけるような感覚がこちらに漂ってきていい感じだがこれはもう6年以上前にやめたので忘れよう。

今朝もいつもと同様、仕事場に来る。
頭の中は課題で一杯だ。
ブラインドを寄せ、窓を開ける。
まだ外は暗い。
冷気が入り込む。
コーヒーの香りが広がっていく。

Macの電源を入れ、鉛筆を削る。
ノートを開いて、今日の作業を書きつけて行く。
今日の書き心地も悪くない。
コーヒーを一口含む。
仕事の緊張と幸福を同時に味わうやめられない瞬間である。

今朝は、「カエル少年失踪殺人事件」を流す。
1991年、韓国大邱で小学生5人が姿を消した。
迷宮入りし、すでに時効となった事件を映画化したものだ。

映画の序盤、子が行方不明となり、騒ぎになる。
子らが帰ってこない。
親が霊媒師に頼るシーンがある。
霊媒師の女が指し示したのは、ゴミ収集車だった。
その中に子供達がいる。
親が必死になってゴミをかき分け我が子を探す。

そのシーンで、私の仕事の手は止まり、映画に釘付けになった。

多大な労力が費やされるが子らは見つからず、手がかりもない。
親達の憔悴たるや如何ばかりだろう。
失踪から11年後、台風一過の翌日に4体の子の白骨が山で見つかった。
子供達が着用していた衣服で縛られ鋭利な凶器によって残忍に殺害されたようであった。
変わり果てたというにはあまりに惨たらしい姿となった子に親達が対面するシーンは胸が潰れる。

91年3月26日、事件があった当時、私は大学生でちょうど沖縄の離島やらを暢気にぶらぶらしていた。
そんな同時期にこんなおぞましい事件が隣国の地で起っていたということに慄然としてしまう。

実に明るいだけの人の世ではない。
なんて恐ろしいのだろう。
不気味な暗部抱えた人間が同じ地べたに住んで暮らしている。
そんな輩が虎視眈々と理解不能な欲望を満たす機会を窺っている。
ナイーブ丸出しで人はみな善良だなどと天下泰平気取りではいられない。
人が現に持つ、得たいの知れない底なしの暗部から目を背けてはならないと、映画が教えてくれる。

引き続き、これまた韓国映画であり名作だと評判の「殺人の追憶」を観ることにする。