KORANIKATARU

子らに語る時々日記

子育てと自分育て

明け方起きるが、始発までたっぷり時間がある。
事務所へ向かう支度をしながら、家内が撮影した音楽会のビデオを無音で流す。
みなが寝静まる深夜である。

画面中央に長男がアップで写り、上下左右に正六角形なぞるように同級生の顔が並ぶ。
口を小さくぱくぱくさせ六角形なす子供達が歌う、その様子がとても可愛い。
しかしどうやら真ん中に映る長男だけ口の動きが違う。
歌うふりして何か喋っているようである。
すると誰かがつい笑い、それが六角形を伝ってゆく。

ダウンライトだけが灯る部屋でソファに座り壁面の画面に見入る。

間奏の間、歌が止んでも長男の口の動きは止まらない。
ついに笑いが六角形の向うまで伝播した。
と、みなの表情が急にこわ張る。
先生が釘を刺しに来たようだ。

大真面目取り組む面々からすれば、歌すら唄わず軽口飛ばす六角形の中心のクソ坊主は、音楽会を愚弄する者でしかなく、眉ひそめられる存在だろう。
訓練されたやり方で整然と唱和されるはずが、調和は乱され、達成されるべき完成度が損なわれる。
あの不良欠陥品は何だ、という話である。

親の顔が見てみたいと言われるようなものだろうが、当の親であるわたしは、目の疲れがひどく、始発電車の中、蒸気でアイマスクをしつつ、出来損ないな愚息の様子を思い出し込み上がる笑いを堪えているのであった。

ちょうどこの3連休の直前の木曜日に、梅田の聘珍樓で、星光の同級生18人と忘年会を行った。
久々に会う顔もあり照れ臭さと懐かしさ綯い交ぜの飲み会となる。
実に頼もしい仲間たちである。

身に備わった勤勉さと責任感が年月をかけ持てる能力を磨き上げ、内面の造形がどこまでも深い、いぶし銀の面構えと風格を形作る。
見かけ外見ではなく、男の中の男とは我々のことだと誇らしくなるような顔ぶれと仕事ぶりである。
18人、これでまだまだ我ら一門の一部に過ぎない。

そして毎度毎度、この集まりが我々の意気込みを新たにし、自らの果てしない前途をグッと見据える迫力を増しに増すブースターの役割を果たす。
各々の道行きで得た役割を十分に果たしつつ、なおかつ背後に隠れた独自のテーマをも長い人生をかけて同時に追求し続けるという真摯な何かは学校生活で培われ皆に行き渡ったものなのだろう。
年を追うごとに真面目さが増すばかりで、暇があれば遊んで怠惰に過ごすという不心得はいないようである。
怠けたところで全然楽しくない、それを身をもって知る者たちなのだ。

このような円環はここ一箇所に留まらず、各所各所に生まれ広がり、各世代に渡って受け継がれる場を見出し、その真摯な何かが暗黙知のごとく託され続けていくものなのだろう。

一かけらでもわたしが良き影響を持ち帰り、また、わたしがその心得を一かけらでも実践すれば、それが子らに伝わってゆく。
そして、流れ流れて子らを取り巻く六角形にもいくらかが浸透してゆく。

自分を育て上げ続ける。
この言葉に、大人の役割が凝縮されているように思える。
良きものが伝わり、笑顔がひろがり、それが更に更に伝わってゆく。
目薬では取れなかった眼の疲れが蒸気でアイマスクでかなり軽減された。