KORANIKATARU

子らに語る時々日記

運命の肌触りを感じるクリスマスの朝

明け方四時、事務所へ向かう途上セルフスタンドで給油する。
クリスマスソングが聞こえてくる。
一年に一度のクリスマス、なかなかに書類屋にふさわしい過ごし方である。
三連休最終日と重なった昨日のクリスマスイブ、世間はお祭りムードで賑わう様子であったが書類屋は自らに今日は月曜なのだと言い聞かせデスクワークに勤しんだ。

今年最大の寒波が東アジア一帯に押し寄せ、暖房利かせても利かせてもガラス素通りするみたいに忍び込んでくる冷気をはねのけつつ作業し、仕事の難所を乗り越えた夕刻、クリスマスムードなどよりはるかに心地いい気分に包まれる。
ゆるりほのかな脱力感に浸りながら映画「わたしを離さないで」を流す。

なんて美しい映画なのだろう。
映像の一つ一つがとても繊細で何とも切ない抒情に満ちている。
登場人物らの苦しいような心の動きがまるで当事者となったかのように染み入ってくる。
臓器を提供するためだけに享けた生、その役目を果たし間もなくこの世界を去らねばならない。
一人の人間としての想いをすべてあきらめ、そのように決められた通り捧げられていく。
彼らはその残酷な定めを従容と受け入れていくのだ。

運命という巨大な存在と一人ちっぽけな個人は素っ気ないほどに非対称な関係を結んでいる。
個人がどんなに運命に忠実であろうとしても、あるいはどこまでも抗おうとしても、運命の方は個人のことなど露とも気にかけていないかもしれない。
もしかしたら少しは気にかけているのかもしれないがいずれにせよ物心ついて以来ずっと、悪女に破滅させられるみたいに個人は運命の一挙手一投足に翻弄され、時にぬか喜びさせられたりしながら、最後には誰もが死によってその幕を下ろすことになる。
多少は悪女に影響を及ぼすことはできるのかもしれないが圧倒的な力量差で結末自体は決まっているのだ。

給油を終えクルマを発進させる。
人影はない。
街は静まり返っている。
眼前の光景に目を見開く。
過ぎ去ってゆく見慣れた街並み、流れる音楽、漆黒の空、満更でもない。
なかなかに奥ゆかしく美しい。

自分の運命というものについて考えてみる。
運命の手触りのようなもの、その気配を感じようとしてみる。

私だって与えられた日々を従容と受け入れている。
事務所までの決まった道を往復し、今日決めた分量の業務をこなす。
阪神タイガースを応援し、巡り合った家族と過ごし出会った仲間と遊んでたまに羽目を外す。
不出来なおつむのっけて不細工な顔をさらし、何の疑いもなく当たり前のように穏やかに一日一日を送っている。

日々の一歩一歩が運命と呼応し、未来を造形していくのかもしれないし、どこかでどんでん返し意地悪な道を歩かされているのかもしれない。
しかしこの先何があったとして、たとえ不本意にも道行きが突如途切れたとしても、何のことはない、それが運命と知るだけのことである。
運が悪けりゃ死ぬだけさ。
滅び去りつつある者に対し我々は語り継いできた。
定めがある、その絶対的な本質に気づき受け入れたとき、殉じる覚悟ができたとき、雑々とした世界の全てが美しく見える。
せめてなるべくは、陰惨で酸鼻極めるシーンよりは充溢し力募りきたるようなシーンの多い、よき思い出が数々積み重なる日々を過ごせますように。

間違ってはならないが、観念してあらかじめ決定された何かに弱く身を委ねようという受け身な態度を説いている訳ではない。
その逆である。
運命への確信、絶対に敗れ去るのであるから、見事すがすがしく敗退しようではないかという完敗宣言のようなものである。
樋口一葉の小説のタイトル通り、負け比べ、である。
負けっぷりというのは内から湧き出てくるどこまでも能動的な言葉なのだ。

大シケの影響で3杯の間人カニ達は昨晩遅く丹後を発ち今夜我が家に到着予定ということだ。
カニが我が家に向っている。
私たちのことを思いやって、よくしてくれる方がいらっしゃる。
運命やサンタはひとまず置いて、そのような実質が何と有難いことだろう。

クリスマスセールだというので年末年始用にBigBeansでワインを買込んである。
銘柄も産地も知らない。
ワインについては白と赤の区別がつく程度、それ以外は不案内だ。
彼の国の飲み物について軽々に味噌と醤油の国の人間が論ずるものではないだろう。
したり顔でワインを語る和人などカニに挟まれて泡でもふくがいい。
冬、鍋を囲み舌鼓の拍子で会話も弾む。
どこまで冷え込んでも大丈夫だ。
そこに添えられるワインは、何だっておいしいに決まっているのである。