KORANIKATARU

子らに語る時々日記

デブがモテようとするとお金がかかる(その2)

手前のカウンターに兄貴、わたし、師匠の並びで腰かける。
カウンターの上に寿司ネタケースのようなものがあり中をのぞくが刺身の切り身のようなものはなく、ラップにまかれたリンゴ、といっても、やわらかな質感のラップではなく、ごわごわのビニールで覆っただけ、他に、皮が干からびた蜜柑が四個ならび、そして素性の分からない肉塊のようなものが皿に盛ってある。
薄気味が悪い。
あまり見ないようにしよう。

歯の抜けた兄ちゃんがカウンター越し付き出しを持ってくる。
発泡スチロールの皿から取り出した揚げ天のようなもの。
店主らしき人物がコの字の真ん中でこちらに背を向け、虚無かこつようにただ座っている。
野球帽をかぶっておりここら界隈でよくみかけるフリーなスタイルなので店主という社会性ある言葉がそぐわない。
どこか田舎の路地で暑さしのぎに軒先でただ風にあたっているという様子だ。

私はどん引状態で息も絶え絶え固まっている。

飲み物も栓のある瓶ビール以外口をつける気がしない。
高田馬場を皮切りに世界各地、場末は平気なはずだった。
しかしここでは通用しない。
子供の頃に見た人体という図鑑の記憶が蘇る。
消化管の写真の横に、ご飯や牛乳の写真が並んでいる。
それらの写真と紙面の匂いが一体となって結びつき、一時期食欲が失せた。

意識が回想の世界に閉じてゆく。
今では出入りすることはなくなったが、かつてほど近いところにあるあいりん労働センターに業務で月一回訪問していた。
この世と地続きだとは思えない、まさに異界であった。
隣接する場所にクルマを停めなるべく呼吸を浅くして、センターの階段を上がって行く。
だだっ広いコンクリートの打ちっ放しに、今日の仕事にありつけなかった方々がうずくまっていたり、寝ころんでいる。
そこらを鳩が徘徊し吐瀉物をつつく。
おい、どうしたんだ、こんなところで何をやってるんだと彼らに対し声をかけるものなどいない。
そこにない存在、見えない存在として知らん顔する、それがここでの礼儀となる。

梅干しの老女と目が合う。
歯抜け君がぷかぷかタバコをせわしげにふかしている。
カビの匂いもそのままである。

今日行った面談の一場面を反芻する。
昨年入社したばかりの職員の話だ。
偶然、彼の父と同い年の方に仕えることとなった。
幼い頃、生き別れたきり、実の父がどうしているのか全く消息を知らない。
継父がやってきたが心を開いたことはない。

入社して父と同い年の方に仕えると知り感慨深いものを感じた。
よくよく思い出してみれば幼心に微かに残る叱り方や言葉遣いが瓜二つである。
この方を、父だと思うことにしよう。
親孝行するような気持ちで真心こめて仕えるのだ。
仕事でミスし怒られてばかりだけれど、父に叱られているのだと思えば苦になるどころか感謝の念が湧いてくる。

そのような話だった。
視点を切り替えれば、同じ事柄でも、全く違った意味合いを呈してくる。
この飲み屋での固定観念的な認識の切り口を転換し、何かを学び取ろう、状況を楽しもう、と意味付けの糸口を探す思考実験を試みる。

師匠はお店のママさんと仲むつまじく懇ろ話し合っている。
大丸の袋に入れたプレゼントを渡している。
大丸のシールははっつけただけで実は余所で買ったのだと種明かしまでしてママを笑わせている。

途中で無口な私に気づき配慮してくれたのだろう、ママさんを私と師匠の間の席に代わらせてくれた。
接骨院の列に並ぶようなママさんを横に、何か嬉しいと感じる懐の深さも人生の余裕も私にはないようだった。
付き出しの揚げ天を勧められるが、手が出ない。
お願いですから、堪忍して下さい。
やはり私には無理だ。
この場から早く離れろという声が奥底から強く響いてくる。
つづく