週末金曜、会食の席を辞し、大阪駅で乗り換える。
夜が深まっていこうという時間帯、くつろいだ賑わいのなか春めいた空気に気持が和む。
富山湾で解禁となったばかりのホタルイカの芳しい風味を反芻しつつ、春の到来を肌身感じる。
この時間ともなると仕事の電話もかかってこない。
着信する直前の何か迫ってくるようなあの緊張感。
身構え過ごすひりひりするような時間も積もり積もれば結構堪える。
解放感に身を浸しのびやか歩く。
春の頃合い、学生時代の思い出の断片が甘酸っぱいような郷愁伴い蘇ってくる。
電話をかけることはあっても、かかってくるとは滅多にないという東京一人暮らしであった。
空の郵便受けが空であることを確認するように、留守電の着信が一つもないことを帰宅するたび確認するような日々。
まれに留守電にメッセージが残っていたりするとそれが嬉しく、また性懲りもなく「誰かから電話かかってきているかも」と不毛な期待を胸に抱くというサイクルであった。
遠い昔の思い出だ。
今では私の電話番号を誰も知らないような世界の静寂に憧憬を覚えることもある。
引きも切らず電話が鳴るようなことがある。
運転中、乗車中、手続中、食事中、面談中、作業中、出物腫れ物所構わず電話が鳴る。
ぼーと待機しているような時間なら余裕綽々対応できるが、ちょっと手がふさがり電話に出られないと、まずは焦る。
そして、早く折り返そうと心理的な負債のようなものが膨らんでいく。
メールならちょっとした合間に内容を確認し書類屋の作業の流れに親和的なのでそのまま対応しやすい。
電話だと色々な想像がかき立てられもどかしいような気持ちとなる。
何か急用だろうか。
いますぐ助言が必要で、待機しているのではないだろうか。
クラーク・ケントが変身するとき電話ボックスを探すのは象徴的だ。
書類屋も、電話するタイミングをすかさず見つけ出し役割果たすべくすみやかに折り返さなければならない。
不吉な厄介事を予感させる電話の着信なら更にじりじりとした気持ちになる。
産廃指導課から無愛想な留守電が入っていたことがあった。
こちらが把握していない欠格要件でも判明したのだろうか。
重々しい声で折り返す。
担当者が言う。
「先生、肩の力を抜いて聞いて下さい。」
全身がこわ張る。
遠い異国で身内に交通事故など不幸があった場合、旅程の心境を考え重大な告げ方をあえてしないと聞いたことがある。
これはたいへんなことが持ち上がったのだと、腹に力を込め次の言葉を待つ。
担当者が続ける。
「山田さんの住所が京都府山科区となってますが、こちらの方で、間に京都市を入れる訂正してよろしいですか?」
本当に肩の力が抜けた。
連日、顧客から役所から様々な電話がある。
役所などへは手が空いたときにかければいいが、顧客へは素早く応答しなければならない。
それが任務でもある。
そのようにタイムリーな対応出来ない場合に、事情察して辛抱強く待って頂ける寛容な心に感謝表明しておかねばならない。
眼の前の話をまずは解決しなければならないといった、やはり、どうしても手が離せない状況というのがあるのです。
先日、ある役所で長い順番待ちの後、やっと窓口で手続が始まったと思いきや、市民から何か厄介な電話での質問があったようで、何と私の目の前の窓口担当が助っ人として駆り出された。
こちらは長時間を待たされた挙句に、突如闖入した電話のため、捨て置かれ放り出された格好である。
いくら何でも理不尽だ。
そこらにいた職員に苦情を述べる。
どれほどの緊急事態なのか、そうでなければ、こっちが先、だろう。
相手の電話番号を聞いて折り返し電話するという対応が、窓口で並んだ者へのマナーではないか。
と言いつつ、まるで同胞の民みたいに、痛いほどに相手の状況も理解できるのだった。
週が明ければ千本ノックの打球のように電話の声が私を標的にじゃんじゃか飛んでくる。
とれるボール、とれないボール、あとでとりにいくボール、パフォーマンスにバラつきは出るだろう。
それでも、どんとこいである。
昔に比べそれらボールを招き寄せる引力が増したのだとすれば、喜ばしいことに違いない。
先様の意向を継ぐ書類屋として窓口全開、飛来するボールを歓迎しなければならない。