KORANIKATARU

子らに語る時々日記

亀は万年(その1)

(1)
5月だとはとても思えない冷え冷えの一日であった。
昼日中なのに吹きさらす寒風に震えつつ四ツ橋筋を南へ進む。
間もなく目的地ということろ、靱公園の交差点で信州そばという古びた店が視界に入る。
暖を取らねばならない。
家内が作った弁当のことが意識の淵にはあるけれど、遠くの親類より近くの他人という故事に背を押される。
気付けばカウンター席に座していた。

日替り定食はカツ丼に蕎麦。
美味い。
ビジネス街の真ん中に古くからある店だと裏切られることがない。
ちゃんと下ごしらえされた手作りの料理だと分かる。
安心できる。
入れ替わり立ち替わり、代々この界隈のビジネスマンが食べ継いできたような店に違いない。

西宮で言えば、梅八やたけふくのような店が浮かぶ。
たけふくと言えばカツ丼。
子らの大好物である。

ある時のこと、公開テストの後に長男がどうしてもたけふくのカツ丼が食べたいと言う。
たけふくは午後3時30分に店が閉まるが、あいにく、公開テストも午後3時30分に終わる。
どんなに急いでも塾から15分は見ないといけない。
とても間に合わない。

ところが、駄目元を承知で家内が前日に電話したところ、大将は快く来店を待つと無理を聞いてくれた。

気取った料理より町の素朴な飯屋の食事の方が末長く記憶に残り、もし海外で暮らすことがあるとすれば、それこそ熱い郷愁かき立てる一品一品となるに違いない。

このブログも、いつかどこかでそのようにふと何かがよぎるようなとき、君たちに読んでもらえたらと思って書いている。
書けば書くほど清々しい。
大仰に言えば、死に支度のようなものかもしれない。

遂に書く話が尽きたとき、何の未練も執着もなく、潔い最期を迎えられるような気がする。
何ならいまその時が訪れたとしても、このブログで君たちといつでも再会できると思うので一かけらの寂寥も湧いてこない。
いや、少しは湧くが、それほどのものではない。

君たちの舌鋒鋭いツッコミが待ち遠しいものである。

(2)
毎月一日になると私淑する老資産家は誰とも会わず電話にも出ず静かにこもって過ごされる。
どのような目的をもって何を思ってそうするのか本当のところは知る由もない。

外部との連絡を遮断し精神を再生させ当月の過ごし方を深く思慮する。
毎月毎月を大切に過ごすため、月初めの日をそのような用途に充てているのかもしれない。

青くどこまでも青かった私自身の未熟な年月を振り返ってみる。
ある日を境にすべてを一変させる、そのように目論んでは失敗を繰り返すという日々は節目症候群としか呼びようがない現実認識を欠いた惨敗の季節であった。

来月からは生まれ変わる、来週からはこうだ、午後何時から猛勉強し始めるぞ、そのように念じ、そして全てが空手形となる。

今では身にしみているけれど、諸作用が絡み合った流れの中にあって、ある瞬間を境に変身するなど、意図してできるようなものではない。

不甲斐なく頼りない自分が、ただただ連続してゆく。
この慣性の力は見た目以上に超弩級であり全く侮れない。
内的な統制力だけではとても御せない太刀打ちできない代物である。

しかし無知で未熟な若者は、そのようである自分が見えず、だから慣性の力など感じることもできず、一変願望の念仏を性懲りもなく唱え続ける。
負け続けても、次こそはという期待感が自らの惨めさを緩和してくれる。
同じ過ちを繰り返し続け、知らず知らず徐々に徐々に自己評価は摩滅してゆく。

どうせおれなんてと絶望的に卑下するすんでの所で自らの力の実像に気付き、一変主義から助走主義へと移行できれば、前途は開けるかもしれない。

一変主義の底流には、その気にさえなれば疾走できるという誇大な幻想が横たわっている。
一敗地に塗れて謙虚になることができれば、それが虚妄であり人間一個にできるのは前へ進むための助走だけであると知ることができる。

軽く助走していると、たまに追い風が吹く。
何だか分からないが、ピッチが速くなり歩幅が大きくなる。
大半の日々は丸っきり凪であり、逆風さえ吹くけれど、倦まず弛まず執念で助走していると、時に本走りとも言うべき疾風怒涛が訪れる。

先日、亀について触れたが、究極の助走主義をイメージする上で亀が格好ではないだろうか。
亀の歩みであれば、心身に何の負担もない。
じれったいほどであり、疾走幻想など抱きようもない。
つまり、空回りによる無為な消耗がない。
一足飛びと意気込む姿勢に付きまとう高転びリスクとも無縁である。

着実に、歩を進める。
気高いほどのノロマの精神で少しずつ少しずつ足を運ぶ。
時には、水を得た亀状態となり、水流に運ばれるようにグングン進む。
名付けて亀ワープ。

亀ではノロマ過ぎてノルマはこなせない、それでは競争に負けてしまう、そう心配するかもしれないが、意外や意外、世間の足並みは亀の歩みより遅いというのが真実だ。

そして、時には静か佇み、位置を確認し方位を微調整する。
亀は万年。
時間は十分にある。

少しダサいイメージではあるけれど手綱握られる馬と比べるならば、亀の方が遥かに心安らぐような気がする。

つづく