KORANIKATARU

子らに語る時々日記

野球道具を子に買うことには深い意味がある3

(5)
父に野球道具を買ってもらったときのことをよく思い出す。
というより、買物するときは、必ずといっていいほど思い出しているかもしれない。

中学に入りたての頃であった。
父を急かして勝山通りのスポーツ店に出かけた。
軟式のグローブは大体3千円から1万円の価格帯であった。
1万円はアディダスのものであり、当時大阪下町の少年の憧れのブランドであった。

私はそれが欲しくて指差したが、父は7千円のミズノのグローブを選んだ。
父が言う。
値段は安いが見劣りは全然しない、それなら7千円のものを選んで、3千円はおまえが持っておけばいい。

アホでマヌケで低知能なその時の私には意味が分からなかった。
長じて人並みの頭に追いついて、少し分かるようになってきた。

グローブ自体は学校のウォータークーラーの前で水を飲んでる僅かな隙に盗まれて消えてしまったけれど、3千円を渡してくれた思想は、根強く記憶に残っているし、君たちにも必ず伝えなければならないと思ってきた。

1万円のグローブを易々とおめでたく買ってしまうのではなく、1万円をケチる訳でもなく、ちょうどいい具合の7千円のものを選び、奥深い意味のこもった3千円を、野球には無用の意味付けからはぎとった現ナマの3千円を私に手渡す。

言葉を並べてその意味を説明するタイプではなく、相手の理解を辛抱強く待つ知性の人である。
その3千円に凝縮された思想は、長い年月を経て果たしてどのような姿へと変貌し具現化していったのであろうか。

BlackがWonderful Lifeと歌い、その視線の先、向こう岸は幸福そのもので、Blackは更にWonderful Lifeと繰り返す。

アイスマンにも、ワンダフルという概念はあっただろう。
純度99.7%の銅の斧は、そう称賛するに値するものであったに違いない。
5300年経っても、このように人類が生き続けている。
向こう岸を見るという概念もきっとあったはずである。

「ぼくはどうやって生きていけばいいのですか」
この問いに対し、いい会社に入るだとか、公務員になるとか、資格を取ると答えるとすれば、型通りすぎて、表面的すぎて、選択肢も貧弱すぎて、結局は見当違いでおぞましいほどにつまらない答えにたどり着き、これならさっさと死んだ方がましではないかと自問しつつ終生終えることになるのではないだろうか。

他の誰かが言葉でかみ砕いて説明できるような類のものではなく、暗黙知のようなものに近く、言葉以前の感性で、自らが何者であるか察知するといったプロセスが先に来るべきなのだろう。
それをキャッチできるかどうかが人生の分かれ道であり、手がかり探る道具はもらえたとしても人に教えられることではなく、10代の奮闘を通じてもしかしたら感知できるかもしれないものであると、まずは知らねばならないだろう。
そして後は、覚悟だけという話である。

ミマモルメやグーパスなど、便利になったものである。
君たちが校門や改札を通過すると同時にメールでその情報がやってくる。
ふっと、その場所とそこを通過する君たちを思い浮かべ、向こう岸をみて歌うような気分になる。

とことんやってこいと声をかけつつ、老いた後まで最強のセーフティーネットであろうとする考えについては5300年前とは異なるかもしれない。
そんなもんいらん、としかし君たちなら言うだろう。