KORANIKATARU

子らに語る時々日記

凍土の地を常夏化する心がけ2


韓国映画のリアリズムは容赦ない。
強烈な感情体験となる。
かつて観た「カエル少年失踪事件」「殺人の追憶」は今も鮮明に胸に残り続けている。

「トガニ」を観た。
これもまた胸が潰れるような話であった。

聾唖学校で実際にあった少年少女らへの性的暴行、虐待の実態が描かれる。
実話がベースだというが、原作小説となる際そのおぞましさは希釈され、映像化される際に更に稀釈されたという。
それでもぐったりするほどに戦慄させられる内容だ。

暴力のもとに置かれる絶望と、性的に無理強いされることのおぞましさ、拭いようのない無念さ、虫酸走る不快感が身に迫ってくる。
呼吸するのさえ忘れるほど、息が詰まってしまうほどに苦しい心持ちとなる。

この映画は韓国が舞台となっているが、ニュースにならないだけで、中国においても学校の教師らが引き起こす性的加害行為は後を経たないという。

所変われば変わるほど本質は同じ。
どこまで行っても人間の本性はこのようなものなのだ。

5
そして引き続き、「執行者」を観る。
韓国では死刑の執行が長年に渡って行われていない。
しかし、凶悪犯に対し死刑執行せよとの世論が巻き起こり、12年ぶりに死刑執行の命令が出される。
そのような設定でストーリーが展開してゆく。

刑の執行に携わる刑務官らの視点から、執行の過程が描出される。
細部まで徹底したリアリズムが極限の思考を促し突き迫ってくる。
手に汗握り固唾を呑んで、刑務官らの立場となりあるいは死刑囚の心境となり、画面に釘付けになる。

はるか昔確かに人を殺したけれどいまや毒気抜けた温厚なおじさんが、数十年の年月を経たいま刑を執行される。
刑場に連行される際、立ち止まり、ちらほらと舞う雪を手に受ける。
雪は一瞬で解け、そのヒンヤリとした感触がこちらにも伝わってくる。

首にロープを固定され、いままさにという瞬間、彼は聞く。
雪はまだ降っているか。
執行者は答える。
ああ、激しく降っている。

そのやりとりが、ある種の普遍性を喚起させる。
かつてそのように処刑された無数の人々のことを想像し、もしかしたら私もそのようであったらそれはどういうことなのだという差し迫るような思いが交錯する。

韓国映画のリアリズムは凄まじい。
当事者として、胸引き裂かれるような心情となって掴み込まれてしまった。

死刑制度は存続させるべきだという意見であったが、もう一度再考しなければならない。
映画に影響を受けた。

6
羽曳野での仕事を終え、高鷲のミートプラザで肉を買う。
帰途、藤井寺の河内屋でも肉を買う。

我が家の子らは育ち盛り。
肉はいくらあっても足りない。
道すがらマッサージを受ける。

羽曳野から自宅に戻り、家内のチャリンコの後をママチャリで追いかけ西宮北口に向かう。
アクタの駐輪場に停め、ジュリエッタまで歩く。
聞こえ高い店であるが、はじめて連れられた。
奈良吉野の名店ロアジの店主が目の前で料理するなんて奇跡のような店だという。

マッサージの施術の際、面倒なので着替えを省略しシャツがしわくちゃだ。
散髪もしていない。
マッサージではなく散髪に時間を充てれば良かった。

店に入ると、懐かしい方の顔が見える。
家族と待ち合わせのようだ。
いやあ、こんなところで会えるなんて思いもしなかった。
西宮北口阪神間のまさに結節点と言える。

このような時、さあ、一緒にやりましょう、とくだけるのも品がない。
距離置くのもつれないような気もする。
状況判断に迷うところだ。

おそらくうちの長男なら、相手の都合など省みず、さ、さ、一緒に飲もうとなり、二男ならデリカシー働かせ、では失礼と、一歩離れた席に座るのだろう。

結局、つかずはなれずの距離で、そして結局は、楽しい会話が交わせた。

そしてもちろん料理も素晴らしかったのである。
穴子の炭焼きなど、穴子の原型から炭で焼かれる工程が目の前で見られて、これはもう河原で焼き魚頬張るような食べる臨場感を満喫できた。
岩がき、パスタ、ウニのブルスケッタ、、、数え上げれば切りがない、たいへんにいい食事を堪能させていただいた。

ああ美味かったと、帰宅する。
子らはめっきりリビングにいることが減ったのに、今日は揃ってテレビでサッカー観戦している。

部屋に篭ることが増え、それで、それぞれあれやこれや模様替えなどし、創意工夫凝らし部屋の様相が日々変わる。
今日はどんな様子だろうとそれぞれの部屋を覗き見る。

ますます勉強に最適化されているのだろう。
デスク回りとリラックス回りの充実度が増している。

子らがせっせと部屋を模様替えする様を思い浮かべる。
何とも幸福な感が込み上がる。

つづく