1
土用の丑の日が近づき寺田町にあるうなぎの名店船屋は繁忙の度合いが凄まじく、残念ながら家族揃ってゆっくり食事という場として選択肢から外す他なかった。
中国共産党の綱紀粛正のため習近平が公布したぜいたく禁止令について長男が語り、それが足を引っ張り中国のGDP成長率が鈍化しているというので、では後方から援護射撃ということでもないけれど、上六の天山閣へ向かった。
北京ダックやフカヒレスープなど一品一品を仲良く分け合って食べ小腹埋め、フィニッシュに、チャーハンと餃子とマーボ豆腐をかき込む。
満腹のうなり声をあげつつ焼飯と餃子を食べないと中華を満喫した気にならないねと子らは言った。
食後、みずきの湯へ向かう。
久しぶりに兄弟揃った姿を見た。
湯船に並ぶ二人のガタイに目を細める。
長男は野球、二男はラグビー。
真夏の過酷な練習の際、二人揃って僅かでもぐらついたことがない。
倒れて木陰で臥せったり、ゲロ吐きまくる少年らを横目に、平気平然と走り続け果敢に動き回る。
もとから頑丈、それに加えて普段の食事管理が行き届いている。
そりゃ、ガス欠になるわけがない。
親バカからすれば、湯船での二代スターの競演。
三船敏郎と高倉健。ガメラとゴジラ。トミーとマツ。
日本人なら誰だって胸躍る取り合わせだが、それに匹敵する。
2
先日、顧客先がダンプの下取り価格について話しているのを耳にした。
730万円と800万円、業者によって提示額が異なるが、730万円提示の業者の方が「親切な雰囲気」らしい。
「あんまり変わらんから、730万円のとこに買ってもらうおか」と社長が言う。
そうでんなと、専務がうなづく。
一介の書類屋である私に口はさめることではない。
しかし、君たちには言っておこう。
800万円と730万円は、全然異なる。
どれくらい異なるかと言うと、100円と70万100円が違うくらいに異なる。
800円と730円の差とは訳が違う。
お金は相対値として感じるものではなく絶対額として見るべきものだろう。
さもないと、よくありがちなことだけれど、給料日に手元に100万円があって、そのうち10万円をぱっと使うがまだ90万円残っているから、それほど減っていないと感じる、といった陥穽に陥る。
しかし使った額は、手元に10万100円ある人が、10万使うのと同じなのである。
お金については、割合的な思考を馴染ませ過ぎると、何とも鈍く大雑把なまだまだ大丈夫という余白感覚が生じてしまうのだ。
お金は、目減りしたり、嵩を増したりするのではない。
絶対的な数量が、消え失せるか、出現するか、そのどちらかなのである。
難しい話かもしれない。
その昔、子だくさんの家の子が一人亡くなったと聞いても、まだ他にたくさんいるからいいではないかと思っていた。
いまは絶対にそのように思わない。
子ができて、その子は絶対的な存在であり、失うことなど考えられないものであると知った。
ここまで絶対的な感覚を引き合いに出せば、少しは理解できるだろうか。
もちろん、お金は天下の回り物、グルグル巡るので守銭奴になってお金を抱きしめるのはみっともないが、どんぶり勘定感覚になりすぎるとアホが見るブタのケツとなりかねないと知っておいた方がいい。
3
タコちゃんから8月の集まりについてメールをもらう。
facebookにおいては一斉で一括的なやりとりができるので、いちいち私にメールするなど手間で面倒な話である。
有難いことだ。
facebookに縁がないと、死後の世界にいるとでも言えばいいだろうか、現世でどのような情報がやりとりされ、何が起っているのか、全く見えない。
だから、メールもらうことは、わざわざお墓参りに来てもらって近況知らせてくれるようなものだと言える。
有難う、タコちゃん。
4
何年も前のことである。
仕事の相談を受け、その家族と知り合った。
韓国から渡ってきた母親が教育熱心であったからか、少年シュンは父親とは違って早熟で聡明であった。
父親はいつも電話で兄貴分に怒鳴られていた。
そのやり取りの様子からシュンは電話の相手がどのような人間であり父親がどんな仕事に関係しているのか、見抜いていた。
あるとき、シュンが父親につぶやいた。
人をビビらせることって、それは仕事なん?
それって、しょーもない仕事やね。
5
シュンの父親はどんなに食い詰めても、高利貸し、売春、麻薬、詐欺恐喝、この4つには絶対に関係しない、と決めた。
これは人に塩水飲ませるようなもんですわ、とシュンの父は言う。
10万円を貸して15万円返せと請求することは、10万円で商品を仕入れて15万円で売るのとは、数字は似ていても全く異なる行いである。
そもそも相手は10万にすら事欠く人間なのである。
10万円渡せばすぐになくなるのは当り前の話だ。
その一文無しに15万円払えと迫り、更に貸し込み凄んでみせて完全に支配下に置く。
塩水飲まされ、ますます喉が渇き、また塩水が注がれ、一層渇きが増す。
塩水飲ませることを善行だと思う欺瞞に馴染めるなら誰でもできる仕事だし、そのような仕事で我が世の春を謳歌する大御所もいるけれど、我が子にはそんな仕事をさせたくないと思っているはずであるし、そのような仕事をしていると知られたくもないはずだ。
6
シュンの父は建設事業を立ち上げた。
持ち前の機動力と営業力で仕事を得始めたのはいいけれど、行く先々で昔の関係者が群がり始めてきた。
経費で飲み食いされるだけでなく、紹介料など意味の分からない請求が来たり、挙げ句、クルマまで購入されてしまった。
弱みもあった。
当初はいざというときの後ろ盾になってくれるかもという期待もあった。
結局は妻の言うことが正しかった。
もっけの幸いと、彼らにたかられ、これからもずっとそうなるというのが真相であった。
そして、借財だけが増えてゆく。
気付けば塩水飲まされる立場になっていた。
しかし、一度食い込まれると簡単には手を切れない。
家族の身に何かあってはたいへんだ。
逆鱗に触れて骨と皮まで溶かされてアスファルトの一部になるような末路は避けたかったし、自殺したみたいに河川敷で首吊ったり靴だけ残して崖から飛び降りたくもなかったし、何より犬ネコ用の焼却炉で焼かれる最期もごめん被りたかった。
7
韓国から来た奥さんが、最後には腹を決めた。
殺されてもいい、もうそんな仕事はお願いだから畳んで欲しい。
幸い、料理の腕が抜群で、お裾分けすればとても喜ばれた。
それを何とか売り物にして生計を立てようと話し合った。
儲かりはしないが、何とか食べて行ける。
シュンも勉強の合間、仕込みや袋詰めの作業を手伝ってくれる。
何があっても新天地でのこの生活を守り通す。
一抹の恐怖はある。
でも、どんなことが待ち受けていようが、この生活を守るためには何だってする。
暴力が襲いかかってきたときに、それに抗する手段が暴力という同じレベルになってしまうのは悲しいことだけれど、そこまで張り詰めた気持ちがないと家族を守れない。
いざという時の相談がてら所轄の警察への挨拶も済ませてある。
すべては家族を守るための正当防衛だと考えることにした。
シュンは言った。
いまどき小学生でも俺のバックには誰がおる、手下の者らがすぐに動く、中国から人が飛んで来る、なんて依頼心丸出しの、自分では何もできませんと白状するような、劇画チックな誇大妄想は恥ずかしくて口にしない。
8
あれから幾年月、先日、本当に久しぶりに電話をもらった。
仕事が軌道にのってきて、奥さんが会社を設立するという。
シュンはますます賢く男らしく、そのシュンの一文字と奥さんの一文字をとって会社名にするというのだ。
その会社は、彼の人生そのものではないか。
間違いなく発展し栄えることだろう。