1
夕刻、帰宅する。
家には誰もいない。
かつては私の帰りが一番遅かった。
しかし部活に塾にプールにヨガに買い物その他各種交友関係のお付き合いなどによってみな巣に戻る時間が徐々に遅くなっていく。
長男はおらず、二男もおらず、家内もいない。
用意された食事のなかでは地鶏が抜群に美味いと箸で運びながらザ・シネマで放映されているラストマン・スタンディングを独り観る。
2
スキンダイビングをこれで大満喫といった品揃えで真新しいフィンやらが我が物顔でリビングに並べられている。
これを目にしたからには夏の旅行をドタキャンする訳には行かない。
何としても仕事を片付けて、画竜点睛欠くことがないよう父として簡易な銛を仕入れ、狩猟家族の筆頭者として奇声あげ海に突き進まねばならない。
そして、弱った魚介を目敏く探し出し銛で突き、ここに父ありと戦果高く掲げ仁王立ちするのだ。
ラストマン・スイミングだ。
毎度のこと、おっしゃる意味が分かりかねます。
3
長男は野球、二男はガーデンズで風立ちぬを観ているらしいとiPhone通じ情報が伝わってくる。
かつて家人が留守となれば書き置き以外に手がかりがない時代があった。
書き置きすらなければ情報の孤絶状態となる。
長男はどこだ、二男はどこだ、家内はいつ帰ってくるのだ、となる。
当時あたり前であったことがいまでは耐え難いように思える。
家族がどこで何をしているのか、その気になれば知ることができるという状態でないと落ち着けない。
なかにはどこで何をしているか知られることはたいへんに困るという方々もいるかもしれないが、それはまた別の話であろう。
悔い改めるべきだ。
4
ラストマン・スタンディングでは、銃が乱射され悪党らが次々に撃ち抜かれ吹っ飛んで行く。
出だしは上々、暑気払う程に爽快で小気味いい。
ふと旅先の空港で目にした光景を思い出す。
ニックと呼ばれる小太りな少年が、口でバンバン銃撃音発しながら弟を乱射している。
弟は派手に打ちのめされた風なアクションで応じる。
我々現代日本人にとっては刀同様、銃も非日常に属するイマジナリーな文物と言える。
だから映画でそのようなシーンを観てもそれで具体的な何かを触発されることもない。
しかし彼の地では事情が異なる。
身の危険を感じたというだけでも正当防衛として発砲することが許される地域もあるくらいである。
身近に銃が存在する世界であれば、いつかぶっ放してみたい、とエロ映画のシーンをなぞるみたいに歪な願望を育ててしまっても不思議ではない。
人を銃撃するイメージの跋扈を放置するにも程があるのではないだろうか。
いつブタのように標的にされ撃ち抜かれる分からない、それくらいの危機感もって訪れなければならない危険な国だろう。
躊躇すれば殺られる、その前にぶっ放せ、という映画でしかなかった。
黒澤明の「用心棒」とは似て非なるものである。
「用心棒」では、登場人物に、どのように生きるのかという武道的な矜持がほとばしっていた。
まさかブルースウィルスが三船敏郎で、クリストファーウォーケンが仲代達矢だと言うのだろうか。
ちょっと笑ってしまう。
いつか銃で無差別に人を撃ってみたいと夢想する者にとっては心満たされる映画であろう。
5
目の前の公園の北側で急ブレーキの音が鳴り響き、瞬間後、バンッと衝突音が振動伴い伝わってくる。
クルマがエンジン音ふかせ急発進し走り去って行く。
ひき逃げではないか。
見通しのいい直線道路なので、アホみたいにスピードあげて走るクルマが絶えない。
しかし住宅街の中の道であり、地域住民にとっては生活圏としての歩道である。
抜け道としてアクセル踏んで走り抜ける車両には眉を顰めてはいたのであった。
起るべくして起った交通事故と言えるだろう。
災難に遭った中学生の少年は何とか無事であった。
大事には至らず町中が胸を撫で下ろした。
何の想像力もなくアクセル踏み込みヘラヘラ運転している者がどれだけ多いことか。
ぶつかれば、生身の人間は吹っ飛ばされやすやすと命を失う。
そのように物騒なものを駆動しているとの自覚がない。
訳の分からないことどもが周囲を飛び交い、いつなんどき災難に巻き込まれるか分からない。
常に周囲を見渡し危機回避を怠らないよう注意しなければならない。