KORANIKATARU

子らに語る時々日記

果ては深淵へと流れ落ちていく時間


気付くと家の前を通り過ぎていた。
狭い間口で質素な長屋風情だといってもこのようなことはこれまでなかったことだ。
振り返って眼見開き我が家を凝視する。
今度こそはと何とか帰り着く。

たまたま玄関口に居合わせた二男が「お帰り」ではなく「こんばんは」と声をかけてくる。
子と顔合わせていないと、どんどん他人行儀となるという都市伝説は本当のことであった。

家と事務所の行き来のうち、仕事帝国の軍勢が勢いを増し続け支配地を一方的に拡大し、いまや家にはでんつく程度となりつつある。
寝支度の頃合いに戻り、家族煩わせぬようバリアフリーの一階畳の部屋で横になり、そして夜明け前に起き上がって家を発つ。


もちろん、好きでやってることである。
のどかな前近代の職人さながら、気が向けば仕事し、向かずばその気になるまでぶらぶらするといった感覚であるので精神的には至って健全な状態であろう。

切羽詰まって心臓ばくばく足下ぶるぶるといったチェリーな時代もかつてあったけれど、そんなドキドキ感が懐かしいといったまでに慣れ切ってしまった、よく言えば、少しは老成したということであろうか。


好き勝手、マイペースで仕事するには何はなくとも時間だけが頼りだ。

一時、経済合理的に考え、私は思考と考案を要する類いの書類作成に注力し、外出する用事のうち単純なものは外注さんに任せるといったことを心がけたことがあった。

そして、経済合理性などクソ食らえと結論したのであった。
我が身にとってはイワシの頭ほどにも役立たぬ、全く不要な信心に過ぎなかった。

駆け出しの頃のように、自分で出歩くことにした。

今日は東へ明日は西。
残暑の日には汗まみれになり、秋めいた日には涼風に吹かれ移動する。
電車であれば窓外に目をやり、ページを繰り、異形の有象無象に瞠目する。

これが実に楽しいのである。

終業の時刻は遅くなるけれど、それで困る人は本人含めどこにもいない。


帰宅し、寝付けぬ夜は映画を見る。
DVDのカバー写真に惹き付けられ「ニーチェの馬(原題 トリノの馬)」を観た。

静か思考を促すナレーションを導入にして、暴風吹き荒れるなか荷車引く馬が映し出される。
塞ぎ込みたくなるほどに激しく叩き付ける強風だ。
馭者にムチ打たれつつ馬が前へ前へと力強く進み続ける。
延々とその描写が続く。
馬の力動と音楽のリズムが完全に呼応し、その冒頭のシーンで観る側の心理的基調が形作られる。

しかし、通常の映画のように手に汗握るような事件が起ったり激しいアクションが繰り広げられる訳ではない。
一見、何も起らない。
いや、何が起っているのか分からない。

単調とも言えるほどに、じわじわと静かに時間が流れ、目立たぬように淡々と変化が訪れる。

男とその娘の終末の6日間が描かれている。
あまりに静かに何食わぬ顔で終わってゆく時間の姿形が視覚化されたかのようである。
最後に訪れるのであろう時間の冷徹さ、抗いようのなさに打ちのめされる。

希有な視点を生成してくれる映画だと言えるだろう。
わいわいがやがやする中では絶対に感じ取ることのできない最期の時間の風貌を垣間見させ、それについて先んじて学ぶ機会を与えてくれる。

我々のうちの誰かが、もしかしたら子孫や先祖含めた我々の全てが、最期にはそのような時間を迎える。
それは何度も何度も繰り返されてきた時間なのかもしれない。
そしてその時間をほんの二時間半の映画で体感することができるのだ。

このような映画を観てしまうと、何とかの涙だとかいう宝石をあの手この手で略奪するようなマンガみたいな映画の稚気にはもう感情移入できなくなるかもしれない。


もとが下町気質なのだろうか、おっさんの域にどっぷり漬かってしまったのか、夜は下町の居酒屋で軽く腹ごしらえする。
ふと、「ニーチェの馬」的なアングルで、周囲のおじさんらを見渡してみる。
馬が荷車ひくシーンの音楽が蘇る。
このようなありふれた場所にも、その時間は、しっかりと痕跡を留めている。


みずきの湯へ向かう際、クルマでなければ阪神電車を使う。
昨日は疲労もあったので早めに仕事を切り上げた。

台風が接近しつつあるからだろうか、淀川の表面が全域に渡って細かに波立っている。
空に目を移せば季節が綯い交ぜとなったみたいに秋と夏がもつれたような紋様の雲が浮かび、その隙間から日没間近の陽光が漏れ川面に乱反射する。
天然のイルミネーションが眼前に迫るかのようであり、その光の柔らかさに心身馴染ませた。
それら光の残像携えみずきの湯にて全身丸ごとリラックスする一日の終わりはこれはもう祝福されていると言えるほどに幸福な時間である。