KORANIKATARU

子らに語る時々日記

男女間に横たわるべき幻想1


二男は塾、家内は学校行事で出かけており、昨夜久々、長男と顔を合わせた。
読んでいる本をのぞくと「永遠のゼロ」であった。
学校の友人らの間で評判なのだという。

結末を話そうとして耳を塞がれた。

ストーリーはさておき中学一年生が当時の空気の一端に触れる上で最適のルポルタージュと言えるだろう。
「永遠のゼロ」で地ならししてから次に「永続敗戦論」を読むといい。

それらを読めば隠蔽され続けてきた日本という国の分裂症的な欺瞞性や独善的な盲信性を知ることができる。

長所だけの日本ではない。

日頃見下したように報道される近隣国の政治的驚地動天と何ら変わらぬ過去の我が国の一面について何も知らないでは話が始まらない。
そして、その過去の残滓は今もって潜在しそのまま随所に脈打ち引き継がれている。

「永続敗戦論」においては領土問題についても目から鱗となる話の連続であったが、最も衝撃を受けたのは敗戦から日米安保契約に至る際に、保身を目的とする「国体」およびその取り巻きの主体的な誘導と関与があったのではないかという記述であった。

敗戦を受け入れるか、本土決戦に突入するか、意思決定を迫られる状況で、「国体」の護持が優先された。
本土決戦となれば潜伏する共産主義反乱軍の蜂起によって「国体」が維持できなくなることが案じられる。

であれば降伏し、敵国に「国体」護持を委ねる方がいい。

つまり、臣民の命を慮って降伏するという結論が出された訳では全くなく、徹頭徹尾、保身というロジックで話が導かれた訳である。
そして、共産主義者が迫る気配を恐れ「国体」は自ら申し出てまで米軍の駐留を望んだ形跡まであるという。

マッカーサーの回顧録で描かれたような、滅私的な態度で毅然と振舞ったという「国体」の姿とは正反対の話であるが、数ある推論のなかの一説といえど説得力に満ち、本当にそうであるなら300万人の犠牲者は裏切られたようなものである。


「永遠のゼロ」に登場する女性はどれもこれも素晴らしく非の打ち所がない。
日本の男性社会が思い定める理想像をそのままなぞるかのような女性達だ。

それら女性の面影について述懐するのはすべて老境の男性達である。
時が経ち夾雑物は濾過され、最後にはピュアな形見としての記憶だけが残るのかもしれない。

先日、「アンナ・カレーニナ」を観て痛感した。
男女間においては、愛の概念や神の思し召し、男女観についての社会規範といった上位概念がないと関係が収束しない。

同居するハブとマングースには互いに共存するためのコンセプトが不可欠なのだ。
上位概念の了解事項がなければ恨み節ベースの始末の悪い疑心暗鬼の応酬でお互いを消耗させるだけとなる。

トルストイはそのようなことを一つのモチーフとして物語を描いたのではないだろうか。
情念で突っ走っても、しかし、その情念は道を切り開くには足らず、情念は思った以上に長続きしない。

二人を結びつけるための神の意思が必要であり、その二人を共同体に取り込む社会的承認も不可欠だ。
結婚制度というのは、二、三の恋愛聞きかじった青二才に語れるものではなさそうだ。

登場人物のなかでその構造を一番理解していたのがジュード・ロウだろう。
いよいよ締めくくりのラストシーン、彼の深い愛を感じることができる。


仕事先からの帰途、今里駅まで歩く。
通りで警官がチャリンコに乗ったおじさんを引き止め職務質問している。
ピンクの紙を出せ、持ってないのかと威圧的に詰問している。
おじさんは持ち合わせていないようだ。

その様子を凝視しつつ通り過ぎたのだが、向こうから私に向かって警官が駆け寄ってくる。
やばい、ピンクの紙など私も持ち合わせがない。
というより、ピンクの紙って何だ。
警官は私を通り過ぎた。
おじさんとのやりとりに加勢するため走って来たのであった。

顛末を見納めたいが先を急がねばならない。
そそくさ今里を後にした。
かつて政財界から芸能、スポーツの大物まで顔出し賑わったという今里もいまやその面影はなく、他の大阪諸地域同様に寂れ、軒先に椅子を出しただ風にあたって過ごすじいさんらとともに黄昏れていく様子である。