KORANIKATARU

子らに語る時々日記

家族忘年会で意識と無意識の健全な交流について考える


明け方、なか卯で朝食終えたおじさんが「よいお年を」と店員に声かけて店を出る。
噛み締めたくなる程にいい言葉だ。
長く響く余韻を味わいつつうどんをかき込む。

西宮は0℃、大阪は1℃の朝である。
ちょっと気を抜いた格好してしまうと路上でガクガク震え止まらなくなるほどの凍てつきようだ。

事務所ではまず一番に鏡餅を飾る。
今日もいろいろ忙しい。
年賀状はじめ年始の書類送付物の支度をし、そして家内の命により子らのiPhoneに手を加えねばならない。
不適切な閲覧などが生じることがないよう処置せよとのことだ。
気を回し過ぎだと父は思うが我が家の官房長官の言には従わざるをえない。

この父自体が中学3年のときに不適切な書物を所持した廉で作文書かされた口である。
事が穏便に収まるよう教師目線の言葉を多用し反省の弁をしたためた記憶がある。
そもそもが商品化されるべきではないものに興味を持って購入し、それだけでなく学校に持ち込み、しかもキヨシと共有しようとまでした、それは悪いことでした、すいません、もうしません。
そのようなことを稚拙で欺瞞だらけの言葉で書き連ねた。

あの謝罪は一体何だったのであろう。
誰に対し何を謝ったのだろう。
学校の秩序を乱しかねない行為でした、すいません、で済むはずのことを、もっと踏み込んで書くよう求められれば、自らの「青さ」自体を自己否定するしかなかった。

当時どこまでも青かった中学生は、自らが批判した対象の何たるかを知らかなった。
それは、創造主の壮大な企みによってなのかどうなのか、人類一般に脈々綿々と行き渡り覆しようもないほどに固着した属性であり、世界百億の男子中学生が全く同様に抱える内実不明な指向性としか言いようのないものであった。

だからその類のことは気を回すことでもないし、先々を想像してめくじら立てることでも干渉することでもない、各自向き合うべきことであって、むしろ押さえつけた場合の反作用の方こそ恐ろしいとかつて中学生であった父は考えるのである。


昨夜、二男を上六の塾で迎え家内の運転で大城園へ向かった。
田中院長に処方されたザイロリックの服用も忘れない。
昨年に引き続き、家族忘年会は大城園の焼き肉である。

いろいろ書かれているというので食事しつつ二男の算数ノートを見せてもらう。
読解しがたい文字が連ねてあって内容を添削したものはなく、どれもこれも一般論ばかり。
塾にほぼ毎日通っているのだし小人数のクラスなのだから面と向かって言えば済むではないか。
いや、面と向かって言葉をかけるべきだろう。
面と向かって言葉をかけるということがあった上でノートにコメント付すならコミュニケーションと言えるが普段は何も言わずノートに申し訳程度走り書きする、なんと消極的なアプローチであることか。

塾という業界の人材は目まぐるしく移動し、時折は違和感漂わせる流儀が混ざることが不可避なのだろう。
しかし、大元には信頼寄せることのできる盤石の講師陣が控えている。
入試は再来年だが油断を除いて懸念材料は何もないと考えていいだろう。

昨年の今頃は長男が受験直前期であった。
なんじゃそれ、と開いた口が塞がらず最大手の塾に見切りつけ、カネちゃんの助言もあって塾を変えると決め、しかし天王寺校は空きがなく上六校で拾ってもらった、そんなドタバタを経ての入試であったので感慨深い。
以来、ここに任せっきりである。

よそ行き風の顔になりすぎたような新体制に違和感を覚えなくもないけれど、古顔講師に頼れる限りは安心できる。

フォワードに長男がいて、おかげでバックスの二男はすいすいと障害物よけながら走れる。
父は更にその前、トコトンいけるところまで突入しておく。

年末の43号線はガラ空きであった。
家内の運転で津守から西宮まで20分かからなかったのではないだろうか。


人は無意識の影響を受けている。
仕事を通じ、痛いほどそれがよく分かる。

仕事の領野を司る潜在的な意識が、体調や目覚めの時間や緊張の強度を操っている。

ハードな仕事が立て込んでいるときは、恐怖や不安めいた色調の精神状態がやってきて、雲行きの怪しさをいち早く告げ知らせ盲点を気づかせ、対策を講じさせる。
それほど力まなくてもいい状態のときは、起動状態の次元を下げ、省力モードにて次なる怒涛に備えさせる。

自動操縦のように、そのような仕組みで自らが操られているとしか思えない。

スイッチ入ったときには仕事する気がなくても体が動くし、スイッチ切れたときは、仕事したくても進捗芳しくない。
通してみれば、ちゃんと帳尻合っている。
とても自らのチンケなおつむで計算してコントロールできることではない。

意識と無意識の交流が健全になされている状態、そのようなことが大事なのであろうと勝手に見定めている。

帳尻が合わないのは、無意識の流れに無自覚で、その強大な力をなめてしまうからなのであろう。

大量リードした途端に配球が甘くなってボロボロに打ち崩されたり、まとまった入金あった瞬間、12で割れば大したことなくても気が大きくなって散財しすっからかんになる、そのようなアクセルとブレーキのアンバランスは意識と無意識というワードで読み解けるような気がする。

そのような精神の流れを見越せば、それが健全に機能するような心がけが仕事や勉強、ひいては家庭において子らの力の伸長を左右する成否の鍵とさえ言えるのではないだろうか。
力の源泉と接続するためには静か落ち着いて日々を送るに勝ることはない。
これは大人でもそうであるが、子なら尚更。
内なる声を聞き損ねたまま大人になってしまえばこれは先々ずっと気苦労絶えない心細さではないか。

人だかりに加わらない、どんちゃん騒ぎに与しない、用もないのにウロウロしない、ザワザワ騒々しい場所からは距離を置く、どうでもいいことを取り繕って華美軽薄に陥らない、、、私が知っているのはそのようなことであるが、精神のレベルを一定に保ちエネルギー水準を保持するために、そのような予防的な振る舞いが不可欠なのだといつの間にか学び知ったように思う。