KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ハネケの「ピアニスト」について1


家内とプールで泳ぎ、完膚なきまでに糖質制限された夕飯を摂る。
ハイボールを飲みつつ、ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」を見始めた。
ラストシーンが頭について離れない。

一夜明け、みぞれ降るなか、クルマで事務所に向かう。
U2の ” Hold Me, Thrill Me, Kiss Me, Kill Me ” を聴きながら、「ピアニスト」のラストシーンについて考える。
映画のエンディングは無音であったが、あるいはピアノと全く関係ないこのような強いサウンド伴ったラストの方がより鮮烈かつ主題明瞭となったかもしれない。

ラストシーンの強弱が、心のうち残る映画の寿命を決定づける。
「ピアニスト」のラストは、ひとつの思想として、在り方として、胸のうち沈着し離れないほどの強さを持つ。

主人公エリカが、憤怒の形相垣間見せ自らの胸を刺す。
すぐさま平静の表情に戻る。
そして背を伸ばし確かな足取りで「その世界」からフレームアウトしていく。
エリカが進んで行った方向と反対向きに車列が静かに通り過ぎて行く。

喜怒哀楽のうち、自らを変えうる動力となるのは「怒り」である。
その怒りは、極限において狂気に達する。

フレームアウトした後のエリカは、自らを何度でも「刺す」葛藤の日々を送るのかもしれない、しかしエリカが彼女自身を「根こそぎ奪い愚弄した」世界と訣別したことは確かなことであろう。


エリカは全てをピアノに捧げてきた。
母の観念のなか閉じ込められたかのような人生である。
そこでは「女」であることすら許されない。

隠し持った赤い服をなじられ、クローゼットの洋服は勝手に処分され、化粧など不要だ、ピアノで負けるなと中年の域に達してさえ母に叱咤される。
楽ではない生計をやりくりし、そして家で待ち構える母の干渉は絶えることがない。
息苦しい。

脚光浴びるようなコンサート奏者にはなれなかった。
音大の教授としてピアノを教える。
自らに課されてきた「規律」と日々向かい合うことがエリカにとって仕事の本質であり、充実感や満足感といった喜びの要素は仕事からは見いだせない。

教え子に対しては、ピアノに全てを捧げてきた自己を投影するからであろう、嫌悪感が端々に表れる。
教え子もそれを体感するので最後の最後まで師弟関係はぎこちなく息が合わない。


ピアノの演奏という美しいアウトプットとは裏腹、女性としての内面は手付かず放置され倒錯した妄想が巣食い放題となっている。
趣味趣向は人それぞれではあるにしても、エリカの性的嗜好はアブノーマルの域にあると言う他ない。

社会生活を送る日常においては「理性」の強いガードによって内面の破綻を表沙汰とはしない。
しかし、非日常の暗がりにおいてはその嗜好を「発露」させる。

エリカが匿名の者となってする性的行為は、惨めでさえある。
その姿は痛ましく、その孤独に胸が締め付けられる。
普通一般の女性が喜びを見いだせる世界ではない。


一人の若者がピアノ奏者としてのエリカ、歳上女性としてのエリカに関心を示すようになる。
美しい青年である。
卓越したピアノの腕前を持ち、知的に洗練された雰囲気があり、仲間とアイスホッケーの練習にも励む。

次第に心を動かされていくものの、エリカはその青年ワルターに対しつっけんどんに振る舞う。
ガードを固くし、男女関係の主導権を渡すまいと頑なだ。
エリカは自らの性的嗜好の発露に慎重とならざるを得ないのだ。

しかし、ワルターは愛してると言う。
エリカは自らの「性的願望」を手紙にしたためワルターに渡す。


化粧をし、赤い帽子を被り、辛子色のシャツを着て、エリカは色鮮やかとなっていく。
歓喜を予感し、今で言う「萌え」た表情となる。
長年の願望が叶うのだ。

しかしワルターは応じない。
受け入れられるはずがない。
その内容はあまりにもアブノーマルなものであった。

エリカは罵られ拒絶される。

ワルターは、エリカとの関係を「ナットとボルト」としか考えてない。
ワルターが言う「愛している」は、ボルトとしての言葉に過ぎなかった。