KORANIKATARU

子らに語る時々日記

三十年前よりはるかに重苦しい


春の匂いが微か漂う快晴の日曜日、事務所近くのスーパーは買い物客でごった返している。
カート押すおばさんらの間をすり抜けるとサザンの曲が流れ、「ふぞろいの林檎たち」の登場人物、良雄や岩田、おっちょこちょいの実たちのことが頭に浮かんでくる。

三者三様に行き詰まってばかりの彼ら四流大学生の世界と視聴者であった我々の世界はサザンの曲によって強く結び付けられている。
私たちの胸のうちいまなお彼らは常なる不本意感のなか葛藤し続け終わることのない奮闘を余儀なくされている。
サザンの曲が彼らの面影を照らし、一体何故なのか、彼らを思って天気がいいのに少し涙ぐみそうになる。

良雄や岩田、おっちょこちょいの実が国際工業大学の学生であった当時からかれこれ三十年は過ぎただろうか。
彼らに影を落としていた生き難さのようなものは、もはや四流大学生にだけ降り注ぐのではなく、今では若者全般を覆い尽くすまでになった。
そのような日本となり、今後もますますその度合いを強める気配が濃厚となっている。


テレビはどのチャンネルもソチオリンピックについてああだこうだと取り上げ続け、合間に、バリで日本人ダイバーが7人行方不明であることや、ここ数日関東を襲った大雪で十余名が亡くなったこと、日本の債務が千兆円突破したことなどを告げ、そしてまたメダルがどうだの、オリンピックの魔物がどうだのという話に戻っていく。

ここまでオリンピック一色となれば、日頃ウィンタースポーツにかけらも関心示さない層であってもそれが重大事だと前のめりになるのも仕方ない。

こんなことはどうでもいいことだ、と見透かす静観派は立つ瀬ないので口をつぐんで、しかしたまには目をやってついつい感動したりしつつも、喧騒の終息を気長待つことになる。


日頃仕事で忙しく、市井の様子に目を向けることはないけれど、反中嫌韓を露わにする右傾化傾向はますます強まっていく様相のようである。

関西ローカルのテレビでは、人を笑わすことなど皆無のお笑い芸人や、この人は一体誰なのだ社会不適合者なのではないかと首かしげたくなるような風体が、ホップステップジャンプと大飛躍の大股論理で隣国の国民性を口汚く罵り、中学生でさえ皮肉に冷笑するような黄昏のエロネタ満載の週刊誌があいつらは変だと隣国の民をこき下ろす大合唱をエスカレートさせていく。

歌は世につれ世は歌につれ。
みなさん、ずいぶんと鬱憤が溜まっているのであろう。
溜飲下がる節回し、その激烈なサビの部分が聴きたくて仕方ない。
「歌い手」の品性がどれだけ下劣であっても意に介さない。
すっきりできれば相手は何だっていいのである。

いくつか書物紐解けば、隣国から見て日本はよほどの二枚舌であると文句言われる筋合いくらいはあると知ることはできるが、そうなると「歌のサビ」に集中できない、邪魔なだけとなる。
ことの真実など、どうでもいい。

どうせあいつらがおかしいに決まっている、第一、実際におかしいではないか、という論理構成で、日本が善、奴らは変、その筋書き以外は受け入れない。
そこまで単純な話ではないだろう、そんなアホな、と問えば、アホ言うやつがアホや、と言い返されるだけのこととなる。


無意識裡のうち、我ら日本人は洗練された近代人、もっと言えば肌白金髪の西洋人だと優越的に思い込んでいるきらいがある。
しかし、入口が混んでいるからと出口から押し寄せ中の人が出られず糞詰まりとなる大阪のスーパーの光景をひと目見れば分かる通り、我々は世界辺境、れっきとした東アジアの民である。
姿形や挙動を正視すれば、西洋人と思い込む方が無理がある。
まずはその認識からスタートすべきだろう。

小津安二郎黒澤明は、日本独特の良き実像を描き出したけれど、下品に振る舞えば、それらが絵空事に堕してしまう。
美化された日本人像を自画像の前提としてしまうのであっては、せっかくの美点も台無しだ。
あばたもえくぼ、はそのように見える魅力が背景にあってのことであり、強弁してしまえば、あばたはあばたでしかなくなってしまう。


ネットが皆の共有物となり、イージーなワンワード・コミュニケーションのようなものが定着していく。
子供ならともなく、いい大人までが、言葉に値しないよう、擬態語擬音語漏らすだけといった表現をまき散らし、日本村の言語空間はますます劣化の度を深め村的要素を増していく。

何だか分からないような文脈のなか、「安易な呼応」か「激烈な排他」だけがあるだけとなれば、これは日本人こぞっての退行現象であったと先々指摘されることであろう。


年金など含めた税負担は今後増すばかりであり、かといって市井の賃金が増える見通しもない。
夢膨らむような、未来に思い馳せるような景気のいい話はどこにもない。

幾筋かの可能性にかけ企図された改革の芽は、「王様」に飽きられた出し物みたいに、たちまち揶揄され冷笑の対象となっていく。

三十年前、私たちの世代が「ふぞろいの林檎たち」によって知らされ、閉塞的な何かを予感し身構えた以上の、途方もない行き詰まり感が右肩上がりでいや増しとなっていくばかりだ。

良雄や岩田やおっちょこちょいの実は、四流大学である国際工業大学出身ではあったが、親友がいたし、就職はできたし、彼女もでき結婚もした。
ところが今後は、人並みの暮らしすら夢のまた夢となっていく情勢であり、実際にそのようになりつつある。

何とか君たちだけは切り抜けろと言えば、無責任に過ぎるだろう。
これは、やはり今の大人が当事者となって向かい合うべき問題に違いないのだ。

自分だけ良ければいい後のことは知ったこっちゃない、日本人の「裏」憲法第一条となりつつあるのかもしれないこのような「内なる愚かしさ」を直視することが第一歩となるのであろう。
そこにいる他者について、もう一人の私がいる、と人間は考えるようセットされているはずであり、そのことに気付いてさえその感覚を蔑ろにするならば、心満ちることのないそれはもう苦みばしった虚脱の世界に陥るのであり、これはもう「良い」はずがない。

繰り返し唱えられ出番を待つばかりの政治的、経済的な打開策はまだ尽きてはいない。
いよいよとなれば、日本人の大人は大したものであるはずだ。
ここから大和の民がどのように振る舞うのか、君たちはしっかりと見ていればいい。
もちろんいざというとき、親を置いてでもどこへなり走っていけるようしっかり「足腰」は鍛えておかねばならない。