8
水曜に天王寺の魚市で珍味堪能し、金曜は長居の青瓦台で焼肉に破顔する。
土曜は王寺の鶴亀でてっちりに手を合わせ、さんざん飲んで、調子にのってしゃべりまくる。
そして一夜明け、何とも漠とした寂寥と気恥ずかしさに包まれるのであった。
人間、調子にのってもろくなことはない。
黙っておればいいものを、あれやこれや余計なことを話しすぎた。
超絶に美味しいものを食べたにも関わらず後味は神妙だ。
酒を抜くため鶴橋の延羽の湯を訪れる。
サウナで汗を流し炭酸泉に横たわり、130cmの立ち風呂の心地いい水圧に身を任せる。
温泉ではあの元大関が大の字になって横たわっている。
動物園でカバ見るみたいにその様子を横目にし、かれこれ一時間。
すっかり飲み過ぎの疲れは癒えた。
9
とても仕事する気になれず、スサンネ・ビアの「しあわせな孤独(原題は永遠に君を愛する)」を見るがこれが実に味わい深い作品であった。
心の機微が見事映像となって描かれる。
時間が経てば経つほど心に沁み入ってくる。
「喪失」を経てこそ、人は愛情の何たるかを知ることができる。
ラストシーン近く、四肢の機能を失った青年がかつて子を溺死で失った看護師に対し心を開く。
これまでその看護師に対して皮肉を言い、悪態ばかりついてきた。
しかし、最後に彼は自らの喪失に向き合い、そして、喪失を経てきた看護師の深い思いやりの心を理解するのだった。
その脇役のシーンが、主人公らの心をも映し出している。
喪失についての深い共感のようなものが登場人物ら全員に通底していることが最後に伝わってきて長く余韻が残る。
10
電車の中でツイッターのタイムラインを眺める。
小保方さんについては相変わらず散々な言い募りが目立つ。
ここぞとばかり嬉々として辛辣となる人品の数量が圧倒的で物悲しい。
一滴ずつの皮肉や冷笑や批判もやがては大変な水量となる。
死んで詫びろとでも言うのだろうか。
博士論文の序盤はコピペであったとして、本論についてもデタラメであったのだろうか。
STAP細胞の論文にしても全てが悪意にまみれたでっち上げであったのだろうか。
現在分かっている情報だけで、彼女が無能であり極悪であり性悪であると決めつけることができるのだろうか。
彼女の置かれていた立場を考えてみる。
STAP細胞の仮説立証において過失生じても仕方ないほどの力学のなかに置かれていたということは考えられないだろうか。
もしくは不本意ではありつつも後戻りできないような流れの中で振る舞い方の選択肢を失っていったということはなかったのだろうか。
世間を舐め、作為的な部分などバレる訳がないと高を括り、平然と嘘に嘘を重ねた、というようにはとても思えない。
万一、そうであったとしても、よってたかって袋叩きにするようなことではないはずだ。
いくら何でも、個人攻撃にもほどがあるだろう。
小保方さんの件を通じマスコミのいい加減さと、人心の荒みようが浮き彫りとなり、そら恐ろしい世であると竦み上がる人も少なくないに違いない。
自分がもしその立場であったらと考えてみる。
絶対に間違いを犯さない、と断言できるだろうか。
そして肝を冷やす。
渡る世間は手加減知らぬ鬼ばかり。
機嫌損ねぬよう、すけべ心露とも出さず静かに暮すのが一番だ。