1
仕事を終え買い物帰りの家内と合流し、靴を買いに出かける。
物持ちはいい方だけれど、靴ばかりはこまめに買い換える必要がある。
家内があれこれ店員さんに指示して靴が並べられる。
悪いねえと店員さんに恐縮しながらあれこれと履く。
あれこれ履くこと以上に面倒なことはこの世に存在しない。
何もいらないからとさっさと帰りたくなる衝動を抑え、耐えしのぎ、脱いでは履き、履いては脱ぎ、を繰り返す。
家内が3足選ぶ。
1足がどうしても気に入らない。
ここが意地の見せ所、2足でいいと強弁する。
気に入らない靴などどの道出番などないのだ。
2
事務所近くの商店街にクルマを寄せ、夕飯の食材を調達する。
野菜や果物を買い、満海で刺し身を買う。
買い物が終わるのを八百屋の前で待っていると、祖母と孫らしき二人組が店から出てきた。
買い物袋に祖母が野菜を入れ、それを4,5歳くらいの少年が持つ。
祖母がガムを少年の口に入れ、並んで歩く。
買い物袋を少年の手から取り、祖母と少年はとても自然に手をつなぐ。
何といい光景だろう。
角を曲がって見えなくなるまでずっと二人を目で追った。
今から40年近く遡った冬の寒い寒い夜、祖母に連れられて銭湯に通った日のことを思い出す。
ちょっとした幸福感のようなものが心に灯る。
保湿成分として感傷もときには有用だ。
3
ある厚生年金基金解散の説明会に出席した。
国の肩入れで始まった制度であっても、方針が転換されればあっけなく制度自体がご破算となる。
不利益被る人にとっては開いた口が塞がらないといった無体な話でありすぎて、一体何を言っているのか分からないというようなものだろう。
長年、掛け金を支払い、そして、すべてが絵に書いた餅で終わる。
それだけでなく「さっさとなかったことに同意しないと、基金清算のとばっちりで酷い負担が生じることになる」と肝冷やすような説明までされるのであるから、広義では暴力の範疇に入る話だ。
受給者が増え、加入者と受給者のバランスが崩れていく。
早晩、収支は成り立たなくなる。
基金が成立するためのハードルを国が突如上げる。
こうなれば、余力あるうちに解散するしかない。
事実上、制度自体の廃止を国が決めたようなものである。
基金の末路から、年金本体の将来も垣間見えるような話である。
商店街を歩く祖母と手を引かれる少年は、おそらく似ても似つかない制度を生きることになる。
制度というものには、一片の感傷もない。
閉店がらがら、となれば取り付く島もない。
誰かが何とかしてくれる、そんな呑気な他人任せではこの先覚束ない。
そうは問屋が卸さないのである。
ますます世知辛いと知らねばならない。
4
塾まで迎えに来たはいいが、早く着きすぎた。
上六の成城石井で格安赤ワイン三本セットなど買い物し、クルマの中で二男を待つ。
時間を持て余す。
福効医院のブログを読むと、4月5日、桜が満開の頃、恒例の歩こう会が開催されると分かる。
こまめにチェックしていないと見逃してしまう。
持ち物に、一芸、とある。
ああ、私には一芸がない。
歌えない、踊れない、ベシャリも不得意、変な顔もできない、というよりそのまま素で変な顔だ。
手品の一つも披露できなければバク転も連続逆上がりもできない。
出し物は、必要と告知されるはるか以前から、備え磨きいつでも出せるようにしておかねばならないのだ。
それを怠った父は、持ち寄る一芸がないため途方に暮れることになる。
君たちが羨ましい。
長男にはパワーダンスという持ち芸があり、二男は絵を描かせれば抜群だ。
満開の桜をバックに、皆がくつろぐ宴会の場、長男が踊り、二男が絵を描く。
私は黙って酒を飲む。
何と幸福な図柄であろう。
5
ソウ先生のブログが更新されている。
相変わらずレベルが高い。
この「相変わらず」が指す時間概念は、数年程度といった話ではなく、生まれてこの方何十年、「積み重なる層」ともいうべき分厚さでイメージしなければならない。
彼はその存在した時点から、絶え間なく分厚さを増し続け、いまや嵩にかかってくるほどに相変わらず天才なのであった。
人となりと多才さの一端が、文章から伝わってくる。
面白さについては言及するまでもない。
言葉の使い方が自由奔放かつ精密なほどに正確無比。
文法的な綻びなど一切ないので引っかかることなくリズムに乗せられスラスラ読める。
そして、深い情感を行間に染み渡らせるだけでなく読後の心にも根付き長く棲息するような、どのように言えばいいだろう、後で発芽してくるようなとでもいうしかない印象的な言葉が随所に配される。
読むこと自体が悦びとさえなる。
この次元の文章が紡げるのは宗先生ならではである。
一日の締めくくりにいい文章に触れるとそれだけで幸福感が増す。
余韻に浸っていると、後ろのドアが開く。
さ、二男を乗せて明日に向かって安全運転だ。