KORANIKATARU

子らに語る時々日記

お子ちゃま精神とのお別れ


京都のある学校と奈良のある学校の中一が同時に参加した全国模試の成績上位者を見た。
一位が奈良の学校の男子生徒であったが、その後ろには京都の学校の女子が連なり、その連なる様は「並み居る」とでも言うしかない層の厚みである。

こういったトップランナー「群」が前を進めば、全体に波及する効果は好ましいものに違いない。

女子力を招き入れることが学校にとって益となる、そう判断した奈良の学校の選択も頷けるというものだ。
今後、おぼこい男子は軒並み置いていかれ、一頭地高い域で両校の女子らがしのぎ削り男子らを引っ張っていく、そのような構図が浮かぶ。

優秀な女子の選択肢が少ない関西地域ではあったので、候補となる学校が増えたことは娘持つ家庭にとって朗報であろう。


既に一人で観てきたという長男を家に残し、家内と二男連れ立ちガーデンズで「永遠の0」を見る。
家内があれこれ話しかけてくるので集中できず、家内は泣くし二男も目頭熱くしていたようだが、私は泣けない。

映画として相当な域の完成度である。
深いレベルでの思考を促されるし、ジーンと来るシーンも数多い。
日常の埋没からふと目を上げ、人としての在り方、生き方について見つめ直すいいきっかけとなる。

ラスト間際、孫の健太郎の眼に、ゼロ戦に乗った祖父宮部久蔵の姿が見える。
健太郎の視線を通じて見える宮部の凛々しく引き締まった表情に、我々は心を鷲掴みにされる。
後を託す、とその眼が語っているかのようであり、その眼で見られれば、普通誰だって男は胸が熱くなる。


戦後、宮部の妻は大阪で窮乏した暮らしを送る。
バラック建てのような平屋の軒先に手書きで「仕立て直しします」と貼札が下がり、私は自身の祖母のことを思い出す。

遅めの夕飯のテーブルを囲みながら、二男に話す。
このような映画に触れ、過去に思いを馳せることは大切なことである。
作中のセリフではないが、皆に当時の物語がある。

まさにあの当時、仕立直しで生計を立てていた私の祖母について語る。
いつも話題に上げる行商の祖母とはまた別の祖母である。
君にとっては曽祖母にあたる。

女手ひとつで娘を育てる苦労は並大抵のものでなかったに違いなく、苦難に継ぐ苦難の人生であったはずだが、それを恨むのでもなく地道に日々の仕事に精を出し、人に良くする心根で誰からも好かれ頼りにされる女性であった。

あの界隈に顔出した折、直に聞いてみるといい。
近所周辺、君の曾祖母の記憶を残す人は少なくない。
誰だって目を細め懐かしがり、時には涙ながら、その思い出を語ってくれるだろう。

私自身もその優しい面影をしっかりと憶えている。

そして今でこそ理解できるのあるが、振りかかる困難の数々に抗して負けず、辛抱に辛抱を重ねしぶとく生き抜いたのである、優しいだけではない、ただならぬ程に内なる強さを秘めた女性であったのだ。

元手も何もないところから地道に働き、最後にはささやかではあっても周囲を助けられるくらいの資産は築いた。
学などないにしても、その人生の軌跡には、私たちが学び汲み取る知性が敷き詰められている。


そのような敬意表すべき精神の連なりの先に、君たちが存在しているのである。
自分自身の生き方を考える上で、その認識が必ずベースにこなければならない。

君たちは何があろうと絶対にチャラチャラとしたバカになってはいけないのである。

今の暮らしのもとを辿っていけば、君たちは会ったことがないにせよ、その幸福を願い日々奮闘してきた曾祖父母らの負けじ魂のようなものが源流にあるのだ。

そして君たちの先にも、この流れが続いていくのである。
そう考えれば、長いスパンで捉えて自らの生活観や人生観というものを構築することの大事さに思いが至るのではないだろうか。

いい歳になってまで玩具やお人形さん欲しがるようなお子ちゃま精神に染め抜かれつつあるような時代であれば尚更、そのことを忘れてはならず、いずれ人生の連れ合いとなる伴侶を求めるに際しても、人として成長の大切さと地に足つく価値について知る女性であった方がいいと心しておかねばならない。