KORANIKATARU

子らに語る時々日記

知らず知らず誰かを傷つけぬように


出先からの帰途、銭湯の前を通りかかったのでひとっ風呂浴びる。
湯船で八代亜紀を口ずさむ。

先日、何年ぶりかで連れられたカラオケで一体何故だろう、私は八代亜紀を熱唱していた。
どこをどう押せば私の中から八代亜紀が飛び出してくるのか見当もつかないが、この情緒感がとても肌に合う。
44歳にしてマッチから八代亜紀へと思いがけず改宗することになったのであった。

石鹸の香に包まれながら脱衣所で扇風機に当たる。
目の前に、床から一段高い座敷に腰を降ろす老人がいる。
80歳は優に超えているだろう。
両手を座敷につき足を前に放り出す格好だ。

しかし、湯上がりの心地よさで自然そうなるはずの仰ぎ目線ではなく、裸のまま俯いてじっとしている。

しんどいのだろうか。
近寄って、大丈夫ですかと声をかけてみる。

考え事してるだけですわ、と老人はチラとこちらを見て笑ってすぐにまた俯いた。

80年以上のなにがしかがぎっしり詰まった老人の背中と伏せた頭を鏡越し見ながら服を着る。
何が頭を巡っているのだろう、くつろいだ雰囲気からは程遠い。


二男のお気に入りの曲をアップルストアでダウンロードし1つのプレイリストにまとめた。
Tumblrでアップしたとおりの洋楽延べ18曲。

それら聞きつつ風呂あがりの心地よさにひたって陽気のなかを歩く。
曲につられていろいろな場面が蘇ってきて陶然となる。
うっとり眼で春の路上徘徊する中年の足元からぞろぞろと幸福感のようなものがせり上がりそれらが一斉に眼窩通過する時、涙腺が一瞬緩みそうになった。

今日は家内に花でも買って帰ろうと思い立つ。


大体のところは察していたにせよ、結婚するとき、収入も貯金の額も家内は聞かなかった。
誤魔化しようもないほどに明白な貧乏からスタートして、子らが一人、そしてまた一人とその貧乏に合流し、子らの運勢なのだろうか、いつの間にか中の下くらい、何とか日銭に困ることはない程度の生活となった。

当時から子らと川の字で眠り、そして今も時々はそう。
我が家に合流したばかりの頃は間抜け面であったちびっ子が、今では知力体力ほとばしらせ何と頼もしい男子となったことだろう。

二男の受験に向け、それら18曲をテーマにしてヘビロテしていく。
車内で流し、各自iPhoneで聞く。

いよいよ会場に向かうその当日、それら曲たちが、積み重ねた膨大な時間を一望のもと照らす。
我ら一丸の象徴とさえ言えるそれら曲たちのエッセンスが百人力の援軍となって君の内で身体化される。
向かうところ敵なし、となる。


中の下程度の暮らしでは贅沢など夢のまた夢。
それでも十分に幸福は満喫できる。
子供心に憧れたゴージャスな夢想など何一つ叶うことはなかった。
この先もそうだろう。
社会に貢献したと胸張れる成果は何一つない。
この先も見込みなしだ。

ただの平凡な中年のおっさん、に辿り着いただけである。
老い先は不明であるが、まあ今のところはいい感じで日々を過ごせている。
とても幸福だ。

「童のときは 語ることも童のごとく 思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが 人と成りては。。。」

ちょっとした何かをくぐり抜けてはじめて感知できる幸福の核心のようなものがあって、それは子供のままだと分からないものなのだろう。


しかし、いくら幸福だからといって、私のように幸福感を垂れ流すのは禁物だ。
機嫌よく生きている、それだけのことであっても目障りになれば急所めがけて横槍入れられる。

調子に乗ってしまうと、知らず知らず恨み買うほどに誰かを傷つけてしまうことがあるのである。
そのような人の心の動きを弁えておかねばならない。

他人の持ち物にさえ人は傷つくことがあるのだ。
持ち物、というのは敷衍すれば属性といったものまで包含する。

単なる記号のようなものにすら意味づけして果てしなく人は傷つき、反作用として妬み嫉みという悪心が生じることになる。
妬み嫉みという悪心ばかりが悪いのではなく、それを生み出し助長する見せびらかしや自慢といった「作用」の方にも責があると心得ておくことである。

調子に乗らず、倹しく静かに身を律する知性が、大人には必ず必要なのだ。