KORANIKATARU

子らに語る時々日記

物欲とは非対称な次元の収穫


時計のベルトが破損した。
梅田、難波、天王寺の取扱店に電話する。
修理するのか、交換するのか、天王寺の説明が体系的で明快であった。
それで仕事で東大阪へ向かう途中、方向転換し天王寺に立ち寄ったのだった。
土曜の天王寺はクルマ停める場所にも難儀するほどの賑わいであった。
目的地とはあべこべ北側に停め、そこから商店街の人波に乗り牛歩で進む。


天王寺駅の北口であしなが育英会の青年らが募金活動をしていた。
自死や交通事故で親を失った学生らのへ支援を求めて募金をつのる。
募金活動する青年ら自体が遺児なのだろうか。
声の限り、彼らは週末の往来に訴える。
丁度土曜の下校時であった。
母校である星光生らが、何人もそこを通り過ぎる。


週末の天王寺は大層な人出でごった返している。
小さな募金箱に千円を入れた。
頑張ってと声をかけると、力振り絞るようにありがとうございます、と皆に返礼された。
心から発せられたその言葉のトーンで、雑多な街のザワザワが一瞬消え、親のない身の困難のほどが伝わってきた。
私は何とか踏ん張り涙をこらえねばならなかった。


一人、天王寺のおばさんが、募金の場を通り過ぎつつ悪態ついた言葉を発する。
「あんなん、ぜんぶウソやで、あたしは信じん」
あしなが育英会の募金活動がでたらめな集金だと、おばさんはおばさん仲間だけでなく、そこら歩く人に届く声で皮肉るのであった。
大阪人の民度を物語るサンプルとして、ここで報告しておかねばならない話だろう。


その日、私の頭にあったのは腕時計のことであった。
せっかくなので新しいのを買おう、という気持ちが沸き起こっていた。
ついついネットで新作の品揃えなども見てしまったものだから、物欲のふたが開いた状態である。
しかし気が変わった。
ベルトが破損しただけなのだから、それを直してちゃんと大事に使おうと自然に思えた。


物欲というのは、何か大きなエネルギーの総体の微小な一要素なのだろう。
それはそれで無視できないけれども、しかし所詮は本質ではない端っこ、中心に来るべきではない二の次三の次という存在だろう。
1万円払って1万円の時計が手元に来る。
そのような出入りが当たり前に対称的な構造の次元を超えた、非対称な何か、について私たちは気付かなくてはならないのだろう。
今日は千円しか手持ちがなかった。
いつの日かもっと価値あることがなせるよう、人として成長していかねばという静かな闘志のようなものが彼らによって喚起された。
千円の学びとしては、これこそまさに非対称な収穫であると言えるだろう。