KORANIKATARU

子らに語る時々日記

糖質制限をやめて良き教師、良き人物について考えた2


先日、阿倍野の田中内科クリニックの田中院長に招かれ四天王寺の寿司処「こいき」で相当に美味い寿司をご馳走になった。

カウンターで肩ひっつけて四方山談義するその話題は、家族やら仕事やら塾のことやら多岐に及ぶが、教師の話題は上がらなかった。
何だか寂しいような気がしないでもない。
もちろん、取り上げようとするなら誰かしら名は浮かぶ。

自然といつも決まってその人物が浮かぶというほどの教師との巡り合いは我々にはなかったのかもしれない。

帰途、自宅を目の前にして、向かいの公園のベンチに腰掛ける。
大阪では激しく雨が降っていて田中院長が手持ちのビニール傘を手渡してくれたけれど、西宮界隈は雨が降った気配もない。
90年台UKロックの金字塔 Oasis の Wonderwall を聴いて食事の余韻にひととき浸る。

そして、ふと気付いた。

さらに時を重ねれば、現在進行形で膨らみ続ける私自身の過去の霧の向こう、様々な人物が浮かぶ中、一群の人だかりが現れる。
人だかりの中心には田中院長がいる。

これほどに周囲に人が巡る人物はいやしない。
吸引力が凄まじい。
だからタコちゃんと呼ばれているに違いない。

我々は誰と誰が会って飯を食っても、そこにもしタコちゃんがいなくても、自然と必ずタコちゃんについては話題にすることになるだろう。


その日を境に糖質制限をやめてみた。

よほどに食べても体重が減少し喜んではいたが、なにせリキが入らない。
いっぱしの頭脳労働者として、ふがいないような自覚症状もあった。

次にやる作業をうっかり忘れたり、根を詰めて沈潜し仕事の中に入り込んでいかねばならないような場面で集中力を欠いたり、あとひと踏ん張りというところで根気が続かない。

普通にご飯を食べての感想は、一言で語れる。
しあわせ、だ。

頭に血が通った感じがするし、足腰に力が入るし、全身に覇気のようなものが行き渡るのが分かる。

腹が減っては戦はできぬ、の真の意味が理解できたように思う。

糖質を取らないなど、古い乾電池で長もたせしているリモコンみたいなもの。
どこを押しても反応が遅い半端者ものである。

ご飯食べたわたしに、糖質制限しているわたしは敵う訳がない。
多少太ろうが、男子である。
強いほうがいいに決っている。


今朝目覚めるとすでに長男は起きていた。
深夜、部屋の窓を放ち外気に身を晒すようにして勉強に取り組む長男の様子を目にしていた。
あまり寝ていないはずである。

眠たくても自らを起き上がらせる。
時には睡魔に勝てずまた眠りこけてしまうにせよ、何かに抗うような強靭なバネのようなものが備わったようで、それが頼もしい。
寝起きの勝率を上げ続けいずれは私同様、目覚時計の世話になることなく百%決めた時間にきっちり目覚めることができるようになるだろう。
言葉交わさず手をかざしエール送り合って、私は事務所に向かってクルマを走らせ、長男は始発電車で学校に向かう。

今日が試験の最終日。
終われば友人と甲子園で野球観戦だという。


事務所で作業していると二男が現れた。
塾がいま楽しくて仕方ないという。

ちゃんと向かい合ってくれる先生が幾人もいる。

塾という人材が流動的な世界にあっては、教師のレベルに凸凹が目立ったり、コミットの強弱についても一貫性がなく子が戸惑うということも少なくないようだが、中心のキーマンがぶれないのであれば盤石だ。
最も尊ぶべき火種が何なのかよく理解している人物が中心にいる塾が一番いいだろう。

ミラクルやマジックなど不要である。
そんなものはノイズでしかないかもしれない。
しっかり向き合い、最後まで目を注いでくれる、そのような信頼を子が覚えるならばこれほどに力強いことはない。

子らは現在進行形で良き教師と出合っていく。
いつか振り返ったとき、自身の現在地点を照らしてくれるほどに素晴らしい先生方にお世話になっている。
せっかく付き合うなら、しっかり付き合ってくれる人の方がいいに決っている。
感謝である。