KORANIKATARU

子らに語る時々日記

そこに恵みの雨など降り続ける訳がない


豊かな生活の実現は古くから人類共通の願いであり、それに異を唱えるのも倒錯した話だろうからケチをつけるつもりはないけれど、話が豊かな生活どころではおさまらず、そんなものを歯牙にもかけない絢爛豪華を求める心性とまでなってくると、人それぞれといった静観を離れ、やはりその顕示性は害悪にすらなりうると、君たちには一言記しておかねばならない。

私自身は、日銭に困ることさえなければ、また老後もある程度の暮らしを見通せさえできればいいので、地味な暮らしで十分に満足であるが、それですら現状の日本では安閑として実現できるものではなく、大半の同胞同様、最低ラインを維持できるよう毎日勤勉静かに過ごしている。
しかし、その一方、そのような等身大の金銭では不満足、狡っ辛いような虚業に手を染めてでも馥郁栄華な暮らしを手にしそれを顕示せんと情熱たぎらせる人たちがいて傍迷惑な存在として煙たがられるも意に介さずよほどの面の皮の厚さで跋扈していると数々伝え聞く。

絢爛豪華を顕示せねばならない連中にはお金が入り用で、豪華絢爛が先かお金が先かなど思索することなど微塵もなく、ただただ執心だけが凄まじく見かけとは裏腹湯気立ち昇るほどの蒸し暑さで仮面はげば素顔は真っ赤に紅潮している。
優雅さといったものは、遥か向こう岸の世界の属性、顕示する必要もないやんごとなきお立場の方々のものなのである。

お金の切り口ですべてが測られ思考され、お金が全てという思想が醸成される。
もちろんそれは思想と呼ぶには一本調子すぎ、何かの一つ覚えといったレベルの信心のようなものに過ぎないけれど、それがその人の思いを形作り、他者との関係のベースとなり、あらゆる局面において人生の成否を分かつ主題となり、歳を重ねてもますます金銭欲が盛んとなるほどの継続性があり、しかもそのような拝金の徒の一群が勢力を保って社会に影響を及ぼしているようであるから、一つの思想として捉える他ない。


拝金の徒は金銭欲が世界普遍の原理と心底信じているので、市井を睥睨しての豪華絢爛の顕示こそが彼らにとって人生のテーマであり勝利の雄叫び、勝ちどきの声となる。

数歩離れて観るだけならばもどかしいような不快感と軽侮の念がせり上がってくる程度の話であり実害はないだろう。

しかし、直接的に関係する役回りとなるとこれは実にやるせない立場に置かれることになるかもしれない。
そして拝金の徒は、それが生む余波や弊害、悪しき干渉作用について考えることはない。

たとえば、拝金の徒にかしずく従者はその場その場の見せかけの栄華繁栄のため心身すり減らす働き蟻として労務献上し収奪され、意に沿わない金儲けの走狗とされ、虚飾の世界にて直立不動で札束にはほど遠い数枚の万札などで頬をたたかれ、彼我の差に加えてこの仕打ちは何なのだと屈辱覚えてもにやにや愛想笑いせねばならなくなるかもしれない。
これはもう陰々滅々たるものだろう。

あるいは、拝金の徒と取り引きするならば、豪華絢爛とは無関係な支出について彼らは激辛で渋々であることをあらかじめわきまえ気をつけていてさえ、ちょっとした不注意で彼らの初源の執着を起動させてしまい場合によっては付き合ってやっている上にこの粗相は何事かと微々たる取引額であってもああだこうだと難癖つけられ執拗に先延ばしされるか払ってもらえないなどという憂き目に遭わされるかもしれない。
お金に関し窮屈で息詰まるような緊張を強いられるとなれば仕事にならず、これはもう疲弊するほどに煩わしいことであろう。

そして、拝金の徒同士が合従連衡する場合には、その負担のしわ寄せは大波となり怒濤のごとくの勢いで押し寄せることになる。
本質的な機能が疲弊し手当てされず、どうでもいいような虚飾だけが充実し、ますますもって外側だけのもぬけの殻となっていく。

取り扱い商品すら定かでなく、定かであったとしても一時的な気分といった程度のものに作用するだけの非実用性極まった虚業を口先だけで喧伝し、人的資源ですら見栄えのためだけと一貫するならば、手に取り振れば空虚な音色が不気味に鳴り響く金食いのブラックホールというしかない。

そのような塵芥な虚業が繁盛するのだというから感染力も凄まじいと考える他なく、影響受けた小拝金の徒が見よう見まねで、それら虚飾世界を劣悪の度合いを増しながら蔓延させてゆく。

このような世界と接することとなった場合には、うっかり口車になど乗ってはならず見識もって回避すべきだろう。
まずもって金銭感覚について大きな齟齬があれば、信頼関係はじめ様々な事柄についての諒解も成り立ち難い。

そしてお金が善、巨額であればさらに善といった一本線な価値観は他の価値の規範がない限り方向音痴となるようなものであって、実際、そのような人物と話せば、一本線なのであるから厚みも深みもないのも当然、平面的な薄っぺらすらないのである。


恵みの雨が降り続くことを前提とした思想は無邪気にもほどがあるようなものだと知っておくことである。
生死相伴うように何も恵みばかりの人生ではなく正負を行きつ戻りつ往還するのであって、いいことだらけを説く説法は淫猥ですらある。
来たるべき渇きへの心構えをあらかじめ含み込んだ教えでない限り実践に堪え得ない。

「ウェイバック」は、シベリアに抑留された政治犯らが脱獄し遥かインドまで踏破する道のりを描いた映画である。
この過酷な道行きにおいて最も重要なのは水である。

水が準主役であり、水を描いた映画だと捉えることもできるだろう。

いつでも雨が降る、オアシスがそこら中にある。
そんな呑気な楽天家が生き抜ける世界ではない。

一つの比喩として、これら過酷熾烈なイメージを君たちのアーカイブに格納しておくのも無駄ではないだろう。


お金という一次元だけの行き先表示で済まされる人生ではない。

多次元なベクトルのなか、もしかしたら、認知の外にある次元さえ含めて、私たちは意識を開くよう努め啓発を受け学んでいかなければならない。

お金自体が意思を持ち勢力を拡大しようとしていると思えるほど、お金が人の意識を席捲し人の活動を先導するかの様相を呈しているけれど、その流れの中にあってさえ、お金が何だというのだ、と害されぬよう免疫持たなければならない。
青臭い洟垂れ談義をしているつもりはない。

一次元が示す方位は風見鶏のようにクルクルまわり、自分がそう信じて突き進んでいると思った所とは全く違う場所にたどり着くということになりかねない。

居場所を見失わぬよう、低きに流れ落ちることがないよう、自らの空間に複数の価値を重層的に張り巡らせるべきなのであろう。