1
いつ頃からだったろうか。
ある時を境に午前様をしなくなった。
興につられてお店を渡って気付けば朝、なんてことはここ何年もない。
仕事する上で朝が黄金の時間となる。
序盤が命。
日の出よりは必ず早く起き、5分で支度し事務所に向かう。
もう待ちきれないとばかりに飛びかかるように机に座って何でもいいのでまずは着手する。
ここでモタモタしたり、他の雑事にかまけてしまうと勢い殺がれ、その日一日が弛んだものとなりかねない。
一日のリズムを形作る上で、出だしでこけることは致命的であり、巻き返しは、何度も試みているが容易ではない。
昼よりもはるか前、その日為すべき課題にケリがつく、このようであると何とも清々しい気分に浸れ、正しい一日を過ごしているという確かな実感を味わうことができる。
後は小旅行気分で満喫する外回りがあり、疲労抜くための労いの時間があり、夕餉があり、静かに黙想する映画鑑賞や読書の時間が訪れ、そして眠りつく。
子らとの交流がここに入れば更に充実度が増す。
このようにシンプルに繰り返される毎日が幸福であり、だからこそこの流れが滞ることを最も恐れるようになった。
全戦全勝とはいかず、不甲斐ないほどの体たらく、亀の一歩にすら及ばない一日を過ごしてしまうこともある。
このような時の惨めな気分といったらない。
せめて亀の一歩は刻む毎日を過ごしたい。
そう願えばこそ、午前様となるような夜更かしの深酒に対し自然と忌避感が込み上がってくるようになったのだろう。
2
結婚してから映画を観なくなった。
生活を成り立たせるため、そんなものに現を抜かしている場合ではなかった。
最近やっとまた映画を楽しめるようになってきた。
やや余裕が出てきたのだろう。
14年も奮闘すれば当然のことかもしれない。
まだまだ序の口であれ人生のぶつかり稽古でこてんぱんにされてきたからだろうか、学生時代とは比べ物にならないほど、映画のシーンや言葉や音楽が染み入ってくるように感じられる。
スキやクワや有象無象の土足や風雪によって心の土壌が程よく耕されてきたのかもしれない。
月末の繁忙が一段落ついてアキ・カウリスマキの「ル・アーヴルの靴みがき」を観た。
観るなり引き込まれた。
日常を切り取る一カット一カットの映像の濃度が圧倒的であり、こちらのスカスカの心にどんどん押し入ってくる。
序盤から涙ぐむほどに私は魅了された。
何の変哲もないフランスの港町が舞台である。
靴磨きを生業とする老境の主人公の日常生活が描かれ、ある日妻が病に倒れ、ある日不法移民の少年と出合う。
誰に言われようが意に介さない偏屈な私であるが、このようであればやはり家内は大切な存在であるだろうと思わず心が開きそうになる。
異国の話であっても、絶え間なく染み入ってくる映像が彼の地の日常を普遍化させる。
いつしか私は、不法移民の少年を我が子に重ね合わせてその行方を見守るような心境となっていた。
感動しつつ、我が子が生きて行く世界において、人はこのようであってほしいと切なく願うような気持ちとなる。
私たちは何か大事な意味と巡り合い、その意味が意味するものを感知し、それを糧として生きていくのであろう。
世の中がこのような温かな文脈で織り成されることが理想であるはずではないか、見事なまでにさりげないやり方で教えてくれる映画である。